アメノオト

人形の福祉屋の日々

botセラピストは人間の夢を見るか

今日のTwitterのやりとりでの派生。

 

人工無脳と呼ばれる存在がある。

人工知能と対極的な存在であり、最初からヒトにに似せて作られている。特に思考したりする訳でもない。 Twitterでは、よく「bot」と呼ばれるものだ。 特定のフレーズに特定の返事を返すというものである。 「おはよう」と呟けば「おはよう」と返って来るし、「ただいま」と呟けば「おかえり」と返ってくる。 ネタ化しているあからさまなbotもあるし、生身のヒトと区別のつきにくいbotもある。 友達だと思って会話してたらbotだったとかいう話を目にしたり(それホントかな?)。 botだと思ってたら中の人が居たとか。 そういう感じで、文字媒体では中の人が居るかどうか区別つきにくい。

さて、最近の僕は非対面相談のあれこれを勉強している。師の田村先生も片手間にやっている。 先生は、ネット相談をメインにあれこれやっている。メール相談とか、MLとか、色々だ。

最近は「つぶやき相談」というTwitterのTLの流れをイメージしたシステムを構築している(らしい)。 ちょっとだけ僕も手伝ったりしたけど、それはお遊びみたいなものなので、あんまり役に立ったかどうかは謎だ。 僕の知らない所で勝手にカタチにしているんだろう。どうせ。 そういうのは僕としてはちょっと癪なので何か新しいモノ無いのかなあ、とか考えていた。

 

つぶやき相談の問題点として、相談員の確保と質の問題があるし、相談員の拘束時間の問題もある。即応するって言うのはつまり24時間だ。 それってちょっと大変だよね。 そういう所に質の良いbotを混ぜておいたとしたらどうなんだろう。 簡単な挨拶とか。 「かなしい」「落ち込んでいる」「死にたい」と言葉が紡がれたら、それに反応する言葉が即応でレスがつくような形があれば良いんじゃないんだろうか、と思う。

 

…こういうこと書くと、プログラムに相手させるの?みたいな話になるんだけど。 勿論生身の相談員の方が良いに決まっている。プログラムは思考しないし会話になっているようでなっていない。ひとりごとと近いのだ。 だけど、生身の相談員とつながらないぐらいなら、botの返事で自殺を引き留められるならそれでもいいんじゃないの?と思う。 相談員を増やすのは物凄く難しい。僕もほとんどの時間昼も夜もあちこちで相談員やってるけど、全然足らないもん。プログラムで事足りるのならそれでもいいと思っている。 botを作った人は、真面目にそれがゲートキーパーになれば良いと思って作るんだから。 別にふざけちゃいない。それならばbotにだってゴーストが宿るかもしれない。

実際botを造るに当たり、汎用性の高いbotを作るのは結構難しい。 個人に特化したbotならそんなに難しくはないのだと思う。理屈的には。 例えば、僕がへこんだ時用のbotとかって作れるんだと思うんだよ。 僕にとってのモデルとなるセラピストってのは存在しているし、対応もある程度ある。 僕のネガなキーワードを抽出して、それに対応した応答を結びつけて行く。 それで、僕のフォロワーにそのbotを仕込んでおくと、僕が突発的にガタッと崩れた時に、ほろりと良い感じの言葉が良いタイミングで来たりする、という仕組み。 こういう所から試しに試作して汎用性の高いモノを作ってみると良いのかもね。

CBTなどは、もう生身のヒトではなくプログラムでゲームみたいにやるタイプもあるという(生身のセラピストのCBTが必要なくなる訳ではない。プログラムで済む人はプログラムで済むだけの話) ただ、これは人格を付与することは出来ないね。 iPhoneでsiriとか流行ったよね。あれもbotと言える。でも皆面白がって人格を設定して愛でてたよね。 だから、botセラピストっていう存在はアリなんじゃないのか、と思う。

『終末期と言葉』

終末期と言葉
終末期と言葉
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高橋 規子 小森 康永
金剛出版
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 待ちに待っていた本が昨晩届いて、深夜だというのに一気に読んだ。 前情報では、終末期の心理屋と友人である(主治医ではない)精神科医の往復書簡という話であって、死にゆく人の語り、当事者としてのナラティヴの実践が綴られている、という情報だった。 この二人は家族療法学会の人でもあるし、自分の師である田村先生とは縁のある人達だろう。

構成は三部構成。

第一部…われわれはどこから来たのか

第二部…われわれは何者か

第三部…われわれはどこへ行くのか

第一部は、それぞれの原家族の話。家族療法家は自分の原家族のことをよく知って居なければならない、という話は教わったけど、それが端的に書かれている。

第二部は、それぞれのセラピストとしての顔。ナラティブアプローチの話。このへん僕は専門外なので歴史的な流れとか深い所まではちょっと理解しきれない。文献が豊富に載っていて、それを全部読んだら大体わかるのかもしれないと思った。 そして、この本の企画が持ち上がった時のメールのやりとり。これは2011年の家族療法学会が終わった直後みたい。

第三部は、本の企画が立ち上がってから11月に高橋氏が亡くなるまでの二人のメールのやりとり。本の話と、高橋氏の治療選択の話、病状の話。亡くなる三日前までのメールが載っている。そして、高橋氏が病床で書いた最後の遺稿「Dの研究」。

 この「Dの研究」はなるほど!と思ってとても役立つと思った。これ、自分の受けているSVでも田村先生が似たようなことやったことがあって、それともリンクした。視点をずらすというか、1カメで観てたのを3カメで観よう!みたいな。対象は同じなんだけど。

 ◆

 内容は細かく書かないけど、僕は最初、もっと「死にたくない」とか「死ぬのがこわい」とか「治療がきつい」とか「痛いのは嫌だ」とか、そういう感情的な表出が入ってるんだろうかとか予想してたんだけど、そういうのは無かった。淡々と、淡々と治療のことや病状のことや、それと仕事の話がずっと続いて行った。最期のメールまで。 そういう感情が無い筈はないんだけれど(人間はそんなに強くできていないと思っている)、そのように表出しなくても小森氏から深い承認が得られているからそれで良いということなのかもしれない。もしくは表出しないことが高橋氏の在り様なのかもしれないし。

  でも内容は物凄くシビアだ。あの病状ではいつもギリギリだったと思う。メールが続く保証なんて6月の時点から無かっただろう。いつ死んでもおかしくないのに、でも次があるかのようなメールばかりだった。小森氏の返事と言うのも実に淡々としているんだけれどそれでも深い承認に満ちていて、ああいうメールがもらえるのはきっとエネルギーになったはずだ。

  僕はナラティヴアプローチも家族療法も概論的な所までしか学習が至っていないので、この本が、その理論的にどうなのか、というところまで思考が及ばないので、平凡な感想になってしまっていけないんだけど、僕はこの本は、死にゆく人のひとつの希望なんだと思っている。こういう形で自らの死をデザインし、語り、形に遺すというのはとても希望があることだ。

 少なくとも、病気を抱えてそう長くは生きられない自分にとっては世界がひっくり返るみたいな感覚だった。こういう形で死んで行けるならば喪失には絶望だけでない喪失しないと得られない希望があると思えたし、そのために得られるものは得ておこうというかなり前向きな気持ちになる(※喪失が嫌だ、と否定的であればあるほど、どうせ喪失するのだから何も得たくないという気持ちになるのである)

それって、この本にもあるディグニティセラピーとしてはものすごい成果なのだと思う。

◆(ここからは自分の話)

 これ読んで僕は、まっさきに「ああ、この高橋氏という人がとてもうらやましい」と思って、思って思って仕方なかったのである。ちゃんと死ぬまで生きている、と思ったしそれを支えてくれる人達が沢山居たし。

 僕は、こういう終わり方はとても良いと思っていて、自分もそうなりたいなあと思う。 自分の喪失だって十分、何か形作るための素材になるはずなのだと思っている。 だから、二番煎じでも良いからこういうの作りたいなあと思っている。 自分の死は自分でデザインして良いのならば、臨床的にも研究的にも利用出来たら良いと思う。臨床やってる者として。そういう在り方が良いと思っている。

 …こういう終わりの話、まだもう10年位先の話だとは思いたいけど最近、病状が悪いので考えておいても損はないと思う。 そういうの、田村先生に「一緒にやってよ!」と頼みたいんだけど、頼むにしては僕のレベルが低すぎるのでとても恥ずかしくまだ口に出来ない。こういう所で呟くのが関の山だ。