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アメノオト

人形の福祉屋の日々

ラベル貼りとラベル剥がし

最近(でもないか)、ラベルが多いよね、と思う。

次から次へとラベルが出来上がる。 執筆熱心なセンセイ方のおかげと言うべきか(反吐が出ますね)。

古くは「AC」とか「機能不全家族」とか。最近は、「墓守娘」とか「毒母」だっけ?いやもう次から次へと凄いよね。キャッチーだよね。キャッチーさは人の心を鷲掴みにする。

その結果、臨床の場では何が起こるかと言うと、 「私、アダルトチルドレンなんです」とか「家の家族は機能不全家族です」とか。そういう語りから始まるクライエントの言葉。

(それってどういうことですか?と訊く。そこへ至る経緯とか理由とか事情とか)

すると、「××先生の、『××』って本知らないんですか!?この仕事してるくせにモノを知らないんじゃないですか!!(炸裂)」と。

(いや、知ってるけどそういうことじゃなくって、あなたの言葉で語ってほしいんだよ…、的なやりとり。大体上手く行かず、僕の第一印象は悪くなることが多い)

 

ラベル貼るのは結構なんだけど、そこから進んでいけなくなっている人が多いような印象がある。 自分で自分を規定してしまってそこから抜け出せなくなっているような感じ。 言霊とはよく言ったもので、自分で自分にラベルを貼って、そのようにいつのまにか振る舞ってしまっているのだ。

 

機能不全家族」とかだって、なにがどうだったから機能不全だったのか、とか、どのへんは機能不全じゃなかったのか、とか、これからどうすると機能不全じゃなくなるのか、なんて発展的なことがそのラベルからはあまり得られてこない。「機能不全は機能不全です!」みたいな、トートロジー的な感じになってしまう。 他の文脈の可能性が閉じているのだ。

その固定化したラベルを剥がして、もういちどフラットにするのはとても大変だ。ラベル剥がすのはそれなりに痛みを伴うし。貼ってあるラベルが多ければ多いほど苦労する。 じゃあ、ラベルがあることそれ自体って害じゃない?ぐらいには僕は思っている。 勿論、ラベルがあることで、自分のモヤモヤしたところや、足場のない所が定まったりするという利点はある。名前と言うものは、存在を確かなモノにするからだ。

しかし、名前はその属性を帯びるので、負のイメージがあるラベルを貼れば、その人は負の感情に飲み込まれる。「AC」にしろ「機能不全家族」にしろ、そう長くまとっていていいラベルでも何でもないと思う。それを立ち位置にして、そのラベルを剥がしていく作業は必要になるだろうし、最初からそのラベルを使わなくても、自分の言葉で語って行く方が余程良いんじゃないのかな。と思う。

 

ラベルを貼ると「私とは×××です」と規定できる。そこに疑問をさしはさむことが出来ない。「×××なんだから×××なんです!」とシャットアウト、立ち入り禁止にできる。その状況から「もしかして、×××ではない可能性もあるのかも?」という気付きに至るまでは大変長い道のりだ。そして、その可能性を思う時、シャットアウトしたものの大きさに気付くので大概苦しく痛い。でも、そういうプロセスを経ることでラベル剥がしは完了して行くと思われる。

 

ラベルの使いどころは難しい。適正なラベルならば意義もある。 しかし、最近は乱造されている気もするし、その結果自分を自分の言葉で語るという力が落ちつつあるんじゃないのかな、とも思う。

そこは、臨床からは遠く離れた世界の出来事のような気もする(精神保健福祉等の普及啓発とも異なる。社会一般と言うかフィクションの世界なんだろうか)。 誰ともなく発信されたショッキングなラベルが浸透し、特定の個人に絡まり、そして、臨床の場にラベルでがんじがらめ状態でやってくる、という構図の気がする。 それはあまりよろしくない。 ショッキングなラベルは人の心をつかんでも、それは呪いのようで、ちっとも良い方向に続いているように思えないのだ。

 

(※病名の話とはまた別。これはあくまで状態像を表すラベルの話)