電話相談と希死念慮
電話相談の仕事では、自殺を実行しようとか実行中もしくは失敗直後の人が電話を掛けてくることがある。
というか、電話相談は自殺に特化していることが多いので殆どこれだ。
もしくは希死念慮レベル「死にたい」(具体的でない)とか。
「死にたい」は「死にたいほどつらい」であることが多く、具体性に欠けている場合は、話をしているうちに「何の話をしたかったんだっけ?」みたいになって電話が終わる。
しかし、逼迫している場合はそんな何となくではマズイ。
「今首吊ったんですけど、紐が切れた。どうしよう」
「家にあった薬、中身見てないけど500Tぐらい飲んだ」
「手首をはさみで切ったら血管が切れてあたりが血の海になっている」
「部屋を目張りしてガス栓をひねった」
「車の中で練炭をたいている」
「ビルの屋上に来た」
「踏切の前に居る」
様々だ。これがホントかどうか第一声ではさっぱりわからない。 まずはあれこれと置かれた状況を訊いて行く。この状況でのんびり傾聴していても命に関わる(傾聴と状況確認のバランス感覚重要)。 いつ実行したのか、その場にはひとりなのか、連絡取れる人はいるのか、病院はどこか、等々。
話しているうちに、なぜそのようなことになったのか、を相手が話してくれる場合がある。 色々と事情があるが、僕が聴く範囲では物凄い簡単な環境調整レベルで解決する話もある。
「えっ…!そんな解決方法があるんですか!」とさっきまで首つってた人がキラキラと声に張りが出てくる。
(そんなことでアッサリ死なないでくれよ……)と脱力する。
この人はこの電話につながったから運が良かったなあ。
それで死んでたかもしれないんだから。
そういう時、「こうやって、誰かと一緒に考えればいい案が浮かぶこともあるんだし、ひとりで悩んで死んじゃうの、勿体ないですよ」と言う。
これは結構本気でそのように思う。
これは、何とかなるタイプの話。
◆
毎日毎日自殺企図を起こして電話してくる人も居る。
毎日OD、毎日自傷。救急車ももうお断りされるようなそういう感じの人達も居る。
この人達は一体何が目的なのか。
自殺したいという割には毎日毎日、同じ手段だ。
抗不安薬10Tとか、自殺するにしても微妙にやる気が無いのである。
もしかして、プロセス嗜癖みたいになっているのでは、と一瞬思ったりする。
電話相談は、真偽を問いただすことが出来ない性質なので、基本的に最悪の状況が起こらないように振る舞うことになっている。
となると、結構優しいのである。相談員によっては割と心配するし。
対面でかかわっていたら依存を引き起こさない程度に枠付けできるような状況でも、電話相談だと難しく、ズルズルと依存を引き起こす場合もある。
そうすると、自殺じゃなくて自殺企図によって心配して貰うことが目的になる。
それでも、そんなことしないと誰ももう気に留めてくれないんだろうという状況には色々と思う所もある。
直で関わる支援者に冷たくあしらわれていることもある。
(それは病院の選定から失敗しているような場合もある)
人に相手にされなければ色々なアピールはどんどんエスカレートするし、エスカレートするたび、傷を負うのである。それで他人も自分も嫌いになる。
だから、そんなこと毎日しなくたって、あなたのことは心配だし、気にかけている、と電話でせっせとメッセージを送って行くうちに上手く回復することもある(しないこともある)。
電話相談に時間が許す限りずっと掛けてくるような人達は、人格水準がかなり下がっていて、ひとりで形を保っていられるようになるまでには結構時間を要する。対面相談につなげたくてもほとんどの場合つながらない。大体皆耳に痛いことを言うからだ。電話相談では殆ど言われないからそれになれていると、直接的な支援がハードモードになってしまう。
僕そういうの嫌なので、あまり甘々にしない。
それなりに痛いことも言うし、グズグズにしないよう現実的な枠で話をしている。
だけど、言って欲しいことを言われるまで電話を切らない人も居るので困る。
僕はそれでも言わないんだけど。
電話相談の相談員の中には、過度に迎合する奴が居るのでそういう奴が依存を引き起こすのだ。 ごく一般的なヒトとヒトとのやりとりの枠で会話しないと上手く行かなくなる。 一度枠を崩してしまった場合、立て直すのに相当な時間コストを要する。 そのへんは、現実の構造枠を崩したりした時の大惨事とよく似ていると思う。
必要なのは、その人の悩みや苦悩を魔法みたいに解決することでもなく、その人が自分の力で解決できるよう関わることじゃないのかなあ、と思う。
ラベル貼りとラベル剥がし
最近(でもないか)、ラベルが多いよね、と思う。
次から次へとラベルが出来上がる。 執筆熱心なセンセイ方のおかげと言うべきか(反吐が出ますね)。
古くは「AC」とか「機能不全家族」とか。最近は、「墓守娘」とか「毒母」だっけ?いやもう次から次へと凄いよね。キャッチーだよね。キャッチーさは人の心を鷲掴みにする。
その結果、臨床の場では何が起こるかと言うと、 「私、アダルトチルドレンなんです」とか「家の家族は機能不全家族です」とか。そういう語りから始まるクライエントの言葉。
(それってどういうことですか?と訊く。そこへ至る経緯とか理由とか事情とか)
すると、「××先生の、『××』って本知らないんですか!?この仕事してるくせにモノを知らないんじゃないですか!!(炸裂)」と。
(いや、知ってるけどそういうことじゃなくって、あなたの言葉で語ってほしいんだよ…、的なやりとり。大体上手く行かず、僕の第一印象は悪くなることが多い)
ラベル貼るのは結構なんだけど、そこから進んでいけなくなっている人が多いような印象がある。 自分で自分を規定してしまってそこから抜け出せなくなっているような感じ。 言霊とはよく言ったもので、自分で自分にラベルを貼って、そのようにいつのまにか振る舞ってしまっているのだ。
「機能不全家族」とかだって、なにがどうだったから機能不全だったのか、とか、どのへんは機能不全じゃなかったのか、とか、これからどうすると機能不全じゃなくなるのか、なんて発展的なことがそのラベルからはあまり得られてこない。「機能不全は機能不全です!」みたいな、トートロジー的な感じになってしまう。 他の文脈の可能性が閉じているのだ。
その固定化したラベルを剥がして、もういちどフラットにするのはとても大変だ。ラベル剥がすのはそれなりに痛みを伴うし。貼ってあるラベルが多ければ多いほど苦労する。 じゃあ、ラベルがあることそれ自体って害じゃない?ぐらいには僕は思っている。 勿論、ラベルがあることで、自分のモヤモヤしたところや、足場のない所が定まったりするという利点はある。名前と言うものは、存在を確かなモノにするからだ。
しかし、名前はその属性を帯びるので、負のイメージがあるラベルを貼れば、その人は負の感情に飲み込まれる。「AC」にしろ「機能不全家族」にしろ、そう長くまとっていていいラベルでも何でもないと思う。それを立ち位置にして、そのラベルを剥がしていく作業は必要になるだろうし、最初からそのラベルを使わなくても、自分の言葉で語って行く方が余程良いんじゃないのかな。と思う。
ラベルを貼ると「私とは×××です」と規定できる。そこに疑問をさしはさむことが出来ない。「×××なんだから×××なんです!」とシャットアウト、立ち入り禁止にできる。その状況から「もしかして、×××ではない可能性もあるのかも?」という気付きに至るまでは大変長い道のりだ。そして、その可能性を思う時、シャットアウトしたものの大きさに気付くので大概苦しく痛い。でも、そういうプロセスを経ることでラベル剥がしは完了して行くと思われる。
ラベルの使いどころは難しい。適正なラベルならば意義もある。 しかし、最近は乱造されている気もするし、その結果自分を自分の言葉で語るという力が落ちつつあるんじゃないのかな、とも思う。
そこは、臨床からは遠く離れた世界の出来事のような気もする(精神保健福祉等の普及啓発とも異なる。社会一般と言うかフィクションの世界なんだろうか)。 誰ともなく発信されたショッキングなラベルが浸透し、特定の個人に絡まり、そして、臨床の場にラベルでがんじがらめ状態でやってくる、という構図の気がする。 それはあまりよろしくない。 ショッキングなラベルは人の心をつかんでも、それは呪いのようで、ちっとも良い方向に続いているように思えないのだ。
(※病名の話とはまた別。これはあくまで状態像を表すラベルの話)
薬の印象値
木曜日から病状が増悪していて、結構大変だったなあ。
痛みで気絶するなんて初めての体験だったよ。
喩えた所で陳腐だと思うけど、骨ごと轢き砕かれるような痛みだったな。
<ああ、なんで痛覚があるんだろうおかしいなあ>と思って痛みの中考えていた。
薬の効果が剥げたりすることはたまにある。
代謝の問題なのかもしれない。ヒトの身体の恒常性なんていつも一定ではない。
薬の効果が剥げただけでは、そこまで痛くはならないはずだけど、おそらくは「痛い」と認識してしまったので、一回認識しちゃうとしばらくは感覚が活性化しちゃうんだよね。
痛みがぼんやりするように催眠暗示をを自分でスクリプト作って掛けているが、暗示とは脆いのでこのように現実的な痛みを受けるとすぐ解けてしまう。
そういう意味では鎮痛剤じゃなくて鎮静剤の方が適切なのかもしれなかったり。
その日は鎮痛剤と麻酔をカクテルして打ったけど、鎮静剤でも打った方が良い解決だったかもしれない。
◆
薬は本当に凄いチカラを持っている。
精神科領域で働いていると感じるけれど、クライエントの大体は薬が嫌いだ。
クライエント然り、クライエントの家族然り、社会通念(本とかマスコミとか)然り、盲点として支援者の一部もそうだ。
薬はよくないもので、なるべく飲まない方が良くて、副作用が恐ろしいモノ、という風潮だ。
必要なモノを必要なだけ使えば、それで良いと思うんだよ。
でも、そうじゃない人達は案外多い。
僕は、色々と面倒臭い病に冒されているので、薬が無いとまず日常生活は送れないし延命も出来ない。ADLもQOLもあっという間にがた落ちだ。こうしてブログなんて書いていられないし仕事も行けないし、大方寝たきりで呪いのように痛みに呻いて呻いて発狂するか、自殺するか、というような状況になるのではないかと思う。勿論、病そのものも進行するので、より体は自由が利かなくなるだろう。ロクな結末が待っていない。
でも、こういう状況の僕にも「薬は毒だから使うな」という助言をしてくる輩もいる。
えー、そんな拷問みたいなこと言うの?じゃあ、その代替案って何だろう???
代替案とは、謎のサプリ、謎の水、謎の××(何でもいい)、そして信仰。
見えざる力で僕の病は治るとか。似非科学とか新興宗教。
そういうの、嫌ってほど聞かされてきた。
いや、心理的には効くのかもしれないけどね。
僕はもう「下らんわ」と思ってしまうのでおそらく心理的効果は皆無だろう。
身体の病気だとこういう話はとっても変な話だと思うんだけど、精神科だとそうならず、薬物治療を排斥する方向に動くなあ、と思う。
これは、支援者であってもこういう考え方を根底に持っている人が居ると思う。
カウンセリングだけを執拗に求めるクライエントやセラピストはちょっとそういう傾向がある。
僕はカウンセリングは麻酔無し手術と思っているので、どちらかといえば薬物療法のみで片付くならその方が良いと思っている(実際、薬だけで全快、という感じにはあまりならないとは思うけど)。
大体の人はカウンセリングより薬物療法の方が危ないと思っている。ホントは逆だと思う。
でも、そういうイメージになる位、薬は危険なイメージなんだなあ。
結構みんな、適当に使ってる薬とかあると思うけどね。ロキソニンとか。
そういうのはよくて、向精神薬はダメとかね。どこに線引きがあるんだろうね。
僕の話を例にすれば、ロキソニンやボルタレンを使ってる頃は誰も何も言わなかった。でも、点滴を打つようになったら不穏な空気になった。抹消や中枢神経を弄るようなタイプの鎮痛剤を使うようになったら皆もうついてこれなくなったし、オピオイドまで手を伸ばした時点でドン引きだった。だけど、どれもこれも鎮痛剤だし、適正使用だった。免疫の薬は免疫抑制剤って言っただけで皆ドン引きだったけど。
そんな程度の知識理解で、「薬はよくない」だなんてよく言ったものだな、と思う。
受けられるはずの恩恵を受けないなんて文明的じゃないんじゃないかなあ。
クライエントはまだ仕方ないけど、支援者はもう少し勉強してないとダメだろう。
クライエントのそういう不安や偏りを煽ってはいけないんだ。
『マインドフルネスストレス低減法』
最近話題の(?)、マインドフルネス。 これが噂の15分でWSが締め切りになったという、Jon Kabat-Zinn氏の来日に合わせたフォーラムとな。来るのは11月みたいね。
僕も行きたかったけどー。
この人の著作を読んだのは5年ほど前だ。師匠が当時、「CBTそんなに自学でやりたいなら、これ読んだら?多分、こっちの方が第二世代CBTより合うんじゃないの?」みたいに寄越してきたのだ。五年経った今、第二世代CBTとか第三世代CBTとかって言い方が適切なのか何とも言えないが。
ここを読んでいる人達はご存知の通り、僕は根本的に体と心の連結がとても悪いので、何かにつけて、このような体と心を密につなぐタイプののメンテナンスを強要されている節がある。しかし、やらねばどんどん体と心の距離が離れてしまうのである。
『マインドフルネス認知療法』を読む前にこっちを読めと言われたのでひとまず読んだのだ。『マインドフルネス認知療法』はもう認知療法の型に作られていて、こっちは概念的な所の話なのかなあ、と。いや、こっちもワークとか書いてあるんだけど。一人用と言うか。クライエントに提供する方法論があるような形には作られていなくて、自学自習用という感じ。
ここに載っているワークは、呼吸法、瞑想法、ボディースキャンと呼ばれる不具合を発している所をキャッチする方法、ヨガワーク等々ある。まあ、ボディーワーク寄りだ。 このボディースキャンと呼ばれる方法は、僕のようなパーツが分断された性質の人には大変相性がよく、やるのが簡単である上にかなり有用である。カメラ視点的な感覚が必要なんだけど、分断していると最初から複数視点があるのでカメラ視点が簡単、という。
当時、僕の身体の病気はまだペインコントロールが悪く、かなり痛みも酷かった(今の方が酷いけど、麻薬使っているし、マインドフルネスを習得したので割と楽になっている)。マインドフルネスの理解として、「そのまま受け入れる/手放す」だと思っている。
メタファーとしては「河の流れに乗って葉っぱが流れて来る。流れの途中でしばらく止まって、また流れに戻りそのまま下流へと流れて行く」ということみたい。
思考とか感情とか、流れてきたら一回手に取って眺めて、そのまま手放すというやり方なんだって。否定するわけでもなく、変えるわけでもなく、そのまま取ってそのまま流すという感じ。
…ちょっと、口で言うの難しいな。という習熟度なのよね。 読んでみるときっとわかるのではないか。これはでも、思想的にはヨガとかに近いのかな。 身体全体で心の動きを捉えて行くという点で。 後は調律の具体的なツールとして呼吸とか瞑想とかって感じ。 最近はマインドフルネスの本いっぱい出てきたからもう少し色々読んでみても良いのかも。
『非対面心理療法の基礎と実際』
培風館
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研究用の資料として調達。
これは、現在の非対面相談の概要が書かれていて、「非対面相談とは何ぞや?」ということをザックリ知るにはとても有用。でも、各論になるとイマイチなので、それぞれ電話相談なら電話相談、ネット相談ならネット相談、プログラムならプログラムという形でそれぞれの本を探していくことになるだろうと思われる。
つまり、「電話相談(ネット相談)とかやってるんだけど、具体的なスキルアップはどうすれば?」みたいなニーズにはあまり対応していない。あくまで、非対面相談にはどういうものがあって、どんな利点と欠点があって今後の展望はどうなのか?的なことを知るとか比較するにはとても良い本だと思う。 僕は電話相談の本は6冊、ネット相談の本は5冊ほど所有しているけど具体的なスキルの話は、それぐらいでようやっと、という感じ。元々非対面相談の専門書は殆どないので多分本に関しては全部網羅しているはず。後は論文に手を伸ばすしかない。
◆
さて、構成は16章
第Ⅰ部基礎編
・1章…非対面心理療法の歴史
・2章…非対面心理療法の方法論
・3章…非対面心理療法の臨床効果
・4章…非対面心理療法の課題
第Ⅱ部実践編
・5章…非対面援助活動としての電話相談
・6章…コーチング
・7章…電子メールによる教育相談
・8章…インターネットとひきこもり
・9章…電子メールによる摂食障害患者への治療支援
・10章…インターネットを利用した強迫性障害の行動療法
・11章…電子メールを用いたフォーカシング技法の試み
・12章…精神分析の視点からみたメールコミュニケーション
・13章…テレビ電話を用いた精神科診療および精神保健福祉相談
・14章…情報技術を活用した生活習慣変容支援
・15章…CD-ROMで学ぶ認知療法
・16章…コンピュータ・アシステッド・カウンセリング
僕が仕事で関わりがあるのは5章とか。でも、電話相談をやっている身としてはもう知ってることなのであまり目新しくもなく、ふーん、まあそうだよね。という感じ。電話相談においては、できることできないこと、電話相談特有の課題置いう所がどこでもクローズアップされている。これに関しては僕は電話相談の中の人として結構言いたいことがあるのでここでは割愛。概論でした。
オンラインカウンセリングについては領域と技法との相性がどうかという話のようで、やはりCBTやSFAは相性が良い様子。CBTに至ってはもう対Th.ではなくプログラム相手という所まで来てはいるみたい(簡単なケースに関しては)。場としてはひきこもりとは相性が良いね。まあ、出てこないからね。そういう意味で教育相談の場でも不登校ケースに使えるという話のようだ。
12章では精神分析的なアプローチの話。これは実際難しいね、という話。これ、中読むと精神分析の話じゃなくてナラティヴアプローチの話も入っている。文字媒体だけでは自由連想がほぼ不可能なので、ナラティヴ的に語り、精神分析的に内省、洞察するっていうところでしか精神分析的な手法は難しいよねという結論の様子。
15章のCD-ROMは国産であり、井上和臣先生が作ったということである(僕が今更知っただけなんだろうけど)。これ、使ったことないけどちょっと使ってみたい。CBTは結構進出しているような印象を受けた(この本を読む限りは)。簡単なプログラムで認知の変容が可能であるならば生身のTh.に出会う前に解決するよね、という所である。プログラムでやってみて上手く行かなければ生身のTh.のCBTを受けるというのはコスト的にも良い話なのかもしれない。Cl.側が生身のTh.にこだわるかどうかでもあると思うけど。ホームワークとかこういうプログラムを補助的に使うといいのかもしれないよね。手仕事よりは。
◆
対面だけでも非対面だけでもなく、両方組み合わせて使うと結構効果的な気もする。これは組み合わせ方によるし、対面を経ている非対面と、そうでない場合は関係性の構築具合とか変わりそうだし。このへんは、僕は、個人的にはヴァイジーとしてSVであれこれやってるけど、それもどれぐらい効果が上がってるのかというのは所詮n=1なのでよくわからんな、と思う。
後は、人的資源とかコストの問題で、人工的な(生身のヒトじゃない)資源の活用は良いと思う。倫理的な問題とか心情的な問題はあるんだろうけど。高額なセラピー料金が払えないという人達にも安価に提供できる可能性はあるよ。 このへんの話を突き詰めていくと、先日書いてたbotセラピスト+つぶやき相談、の話に行きつくんだけども。それは、そこまでに膨大なステップがありそうだけどね。
「物」への執着と手放すこと
片付け、というのは公私共にホットな話題。
仕事では、対象者の家に訪問したりして部屋の様子をぐるぐる見ている訳だけど。
大体、ゴミ屋敷か潔癖な綺麗さかどちらかだ。 ゴミ屋敷の方が多い。
ゴミ屋敷は様々な伝説をこの仕事の人間は持っているはず。
僕は、そんなにひどい所は見ていない。せいぜいよくわからない虫の大群ぐらいで。 よくわからない虫ってこわいんだよ。ゴキブリの方が素性が知れてる分マシである。 とはいえ、ゴキブリだらけの家だって流石に長居するのは難しい。
知り合いの同業者にきくとネズミの大群の話なども聞くし、虫はマシな方だ。
ドア開ける時にガンガン棒で叩いてネズミ散らしてから入るとか聞いた。
多くの人は「部屋を片付けられない」とか言うけど、そういう疾患由来性のゴミ屋敷と比較すればどれもこれも何とかなる話なのである。
物を捨てればいいじゃん、と。
僕は基本的に物に執着しないので必要なくなるとすぐ捨ててしまう。というかあまり持っていない。
物への執着とは何の物に執着するかでその人が何に執着しているのか判る。
過去に執着する人は、学生時代の教科書とかノートとか捨てられなかったり。
関係性に執着する人は、人からもらった物が捨てられない。
不安な人は、いつか使うかも、と使わないモノを保管する。
そうやって、荷物が増えると心が窮屈になる。そういうところから自由だと身軽だ。
過去の栄光は、現在の自分の在り方にどれくらい影響しているか。昔頑張って今の自分が居るならもう、それは持っていなくても良い。
関係性は、それを捨てた位で損なわれる関係ならそれまでだし。
今使わないものはきっと将来も使わないのだ。必要になればその時また求めればいい。
だけど、そんなに上手くは行かないよね。 僕もそういう執着がある物品は幾つか持っているし。
◆
その物を持っていると、自分が嬉しかったりワクワクしたりホッとしたりするかという基準があるし、物が活き活きとするかどうか(自分が持っていることで価値を持つものか)という基準もある。
それらを満たさない物は、物のためにも手放してやる方が良いと思う。
活き活きとしない物はもう死んでいるのと同じなのだ。
そういう問答を繰り返して尚手元に残るものは自分にとって価値ある物であり、物にとってもそれはきっと幸せなことなのではないか。
愛着ある物を手元に増やしていくと、物がいちばんいい状態であるように環境を保つようになり、物を手入れするようになるので、結果として部屋はキレイになって行くのである。
そうやって、片付けをすればいいのではないか、と思う。
片付け指南本とかに書いてあるのってこういう話じゃないんだろうかね。
テクニックよりも動機付けの所が重要なんだと思う。
ハレとケとケガレ、そして塩
先日、電話相談の職場で「夜勤は妙に疲れるんですよ…」みたいなことを言っていたら「夜勤は重い相談が来るし、負のエネルギーを吸い過ぎているんじゃないか?塩を持つといいと先輩から聞いたので持っている」と同僚に言われた。
塩。 僕は最初、塩でも食べたら元気が出るとかそういう話なのかと思っていたんだけど。この文脈での塩は、「清めの塩」的な発想だということが判る。 そりゃ、自殺関連の相談が多いだけにそういう発想にもなるのかもしれないが。でも、それを言った同僚は「死」=「清めの対象」という意味ではなく、「相談者に死を呼び込むようなモノ」=「清めの対象」としているらしく、普段の対面相談での仕事でもお守りのように塩を持っているのだとか。「ケース展開で、クライエントによくないことが起きないように、というジンクス的なモノだ」と言っていた。 まあ、勿論塩云々でケースが展開は左右されない。 僕らはプロな訳で。お守りみたいなものである。そういう話なのだ。 じゃあ、この「不吉なモノには塩」的な感覚ってどこから来るのかな。
この話を聞いていて、ふと柳田國男の「ハレ」と「ケ」の話を思い出した。ので民俗学的観点?で考えることにする。
「ハレ」とは「晴れ」だ。非日常である。冠婚葬祭とか。お祭りとか。季節行事とか。節目節目の行事。後は旅行とか。晴れの舞台とか、晴れ着とかの「晴れ」だ。
「ケ」とは「褻」だ。日常である。日々のルーティンワークとでも言えばいいのかな。仕事とか学校とか家事とか。僕の場合は病気の治療とかもケになるね。
「ケ」(日常)が遅れなくなった状態を「ケガレ(褻枯れ)」と呼ぶ。「ハレ」がプラスの非日常ならば、「ケガレ」はマイナスの非日常だ。この「ケガレ」状態は「ハレ」を以ってしてチャージしたりリセットかけたりすることが出来るそうな。そうすると、枯れた状態が回復して「ケ」が送れるようになると。
なんかこれ、エネルギー論になるのでうつ病の回復みたいな話よね(あくまでイメージ)。 この「ケガレ」は「穢れ」とも取ることが出来てこっちの方が「褻枯れ」よりも馴染んでいるよね。不浄なモノという意味だ。不浄なモノを祓うために塩で清める。というね。 葬式から帰ったら玄関の前で塩を掛ける。それって「死」が不浄だからだ。 でも、冠婚葬祭と言うぐらいだし、葬式とは「ハレ」だったのかもしれない。 ヒトの死を「ハレ」と取るのか「ケガレ」と取るのかはかなり価値観に左右される所ではあるよね。
話は戻って、自殺の相談が多いから「塩」を持つという話である。 自殺は死の中でもとりわけタブーみたいな取扱いになっている。家族も関係者も。その話を聴くことすらもタブーみたいな雰囲気がある。僕らはそういう相談を実行前の人も、実行されて失敗した人も、実行されてしまい遺された家族の人の話を、率先して受けるので死の話がメインだ。生きるとはなにか、死ぬとはなにか、そういう話を聴く。自分の死生観も当たり前に引き摺り出されるし向かい合わねばならない。 そういう場に身を置いていると、死そのものが不浄とはどうしても思えない。僕は元々医療畑だし、病死にしたって、その死は不浄にならない。となると、何を塩で祓うんだろう。そう考えると、「褻枯れ」状態こそ真に祓うべきものだよな、と思う。相談者を自殺に追い詰めるようなエネルギーの枯渇状態とか。枯渇するから日常が立ち行かなくなって自殺まで思いつめることになる。そういうモノを概念的に祓うということでの「塩」ならば、「死という穢れを祓う」よりは納得出来る。
まあ、僕らはプロであるし、塩に頼って祓うのではなく、専門性を以ってして「褻枯れ」状態をなんとかしていく、ということなんだけどもね。ただ、そういう技術が無い人達にとっての、「よくわからないけど良くないモノから身を守って欲しい、元気になって欲しい」という祈りや願いみたいなものは昔も今もあんまり変わらないのかもしれないな、と思った。 そんな訳で、お守り程度に住むなら塩でも用意して夜勤をこなそうかと思う。 深夜の仕事場はマジで恐いからである。僕はその手のモノは視える体質だしそういうの地味にこわいからである。じゃあなんで今まで塩を持ち歩いてなかったんだよ、という所であるが、全くそんなこと思いもつかなかったからである。しかも病院じゃないから油断していたというのもある。病院に勤めていた頃はマジでこわかったので色々持っていた。塩とか、お守りとか。
でも実際は、生きているヒトの方がよほど性質が悪いし、こわいんだけどね。