『終末期と言葉』・再考
このブログの初回の書評はこの本だったので、再起動に際し改めて。
当時の自分はだいぶ小難しくまとめている。
久々に読み直してみて、当時と感想としては変わらなかった。もう少し情緒的なところはわかるようになったかなと。なので以前と違って読むことによって痛みがある。
臨床経験が増えたことで、ナラティヴアプローチの周縁が当時よりわかるようになったので、職業人としては第2部や「Dの研究」について、よくわかるようになった、ということで。第3部に関する感覚は当時と変わらない。
余命半年のセラピストと、そのよき隣人としてのセラピストの往復書簡。
死にゆくプロセスがそこにあって、そして遺るものがこの本、という。
5年前に比べて、自分は病床に臥せることが増えたので、病床でこれだけの文章を書いてやり取りするってのがどれぐらい大変なことなのかは5年前よりよくわかる。病状が悪いと文章なんて書く気になれないし、そもそも意識を保っていることも難しい(薬でぼんやりさせてしまうので)。だから、高橋氏は往復書簡や本のための原稿を書いているときって相当体が辛かったのでは、と想像する。でも、それはきっと救いにも似たものなのかもしれなくて、死の3日前まで自分の言葉を受け止めてくれる相手とやり取りできたってことはとても幸せなことのようにも感じる。
5年経った今でも、自分はこういうふうに最期を迎えたいなとおもっている。これは生きていることを実感できるだろうし、死ぬことが多少なりとも全ての喪失ではないように感じられるかもしれない。
この5年は「臨終のベッドサイドの椅子に座る人は誰か」問題について、折に触れ考えてきたけれど、つまるところ、こういった最期のやり取りができる相手、ということなのかなと思う。それは、家族でもなく友人でもないが、自分の言葉を受け取ってくれる誰か、なのかもしれない(この本の二人もそうであったように)。