アメノオト

人形の福祉屋の日々

Cl.への個人的感情の取り扱い

クライエントに向ける感情について。

仕事の時は基本的に肯定的ではあるんだけども、じゃあ、個人としてどうかと見た時に個人的価値観の下において肯定的ではいられない相手も居る。

僕は別に個人的感情と、仕事での対応と一致してなくて良いと思うんだけども。

仕事が滞りなく出来る範囲にその感情がコントロールされてれば。

 

色々なクライエントが居る。

ゴミ屋敷の主とか。

人を殺したことがある人とか。手酷く暴行する人とか。

何度も子供を虐待してる人とか。

父親のわからない子供を何人も産む(皆産まれたらすぐ施設)人とか。

色々だ。

その家族も色々。

頭ごなしに罵倒されたりとか。

イイ感じでクライエントが成長してきているのにあっさりぶち壊す人とか。

 

こういう感じのケースばかり関わると、流石に瞬間的に「みんな良い人」とは全く思えない。

瞬間的には「なにこのひと」みたいな気分になる。

治療や支援が入ってそこそこ安定している人(デイケアや作業所や地活などに通所できるレベル)はそんなもやもや感からはある程度離れている。

そういう支援に乗る前の人への対応では平和な感覚ではいられなかったりする。

 

地域の荒事をやっていると、命がけだ。

怪我しそうになったり死にそうになったりした時、その相手に好意的に出来るかっていうと個人的感情レベルでは全く無理だ。

同僚には、暴力を受けて再起不能になったり、刺された人も居るし。

そんな後、その当人に何も感じない人は居ないでしょ。

「許せない」と思ったり「自分もそんなふうになるんだろうか」と思ったり。

 

そういう場は存在している。

それでも、個人的感情でも肯定的、仕事でも肯定的で居られるんだろうか。

一致するんかな?

でも、仕事はしなくちゃいけない。

個人的感情ではこう思う、支援ではこう入る、と分けている。

そうしないと、難しいのだ。

勿論一致して出来るならそれはそれで良い訳で。

ただ、それはかなり平和で、支援者の当事者性を刺激しないタイプのケースということになるよね。

 

臨床をしていると、苦手なタイプのケース、クライエントは必ず出てくる。

苦手なケースが出てくることは悪いことではないし当たり前のことだと思う。

それに対応できなくなることが、マズイのだ。

 

どうやって対応していくのかということが、支援者生命を延ばすためには重要と思う。

ここで自分の感情から目を逸らして蓋して無理をすると、あっという間に支援者生命が尽きる(仕事できなくなる)。

 

プロセス的には

1、何故苦手なのか嫌と思うのか、という所について掘り下げる

 →そこで、自分の帯びている当事者性がわかる

 →自分の当事者性を見る。ある程度調整する

2、わかったところで、その後の対応について検討する

 →どうやって、感情面の揺れをコントロールするのか

 →適切な支援について、妨げるものは何か

3、その後

 →どうしてもダメなら自分のメンテナンスする

 →支援者交代など物理的対策も検討する

 

どんな人にも、支援者としての自分の持てる支援を等しく提供できなければならない。 そのために何が必要なのかを知っている方が良いと思う。

 

自分の居た大学で散々言われていたのが、

自分にとってどういう人が苦手なのか、どうして苦手なのかわかる→学生レベル

その苦手な人に、適切な支援が提供出来る→臨床出ていいレベル

 

個人的価値観の下で肯定できるかどうかって影響させてはいけないよな。

それはそれ、という考え方。

でも、日常とクライエントの橋渡し役である以上、個人的価値観もそれなりの指標にはなる。

なんでもかんでも肯定しててもその人が日常からはみ出てしまったら意味がないし。 肯定しつつもここはズレてるとか、これは許容されないだろうとか、色々考えたりして摺り寄せることも必要。

バランスは難しい。

両方の視点をカチカチ切り替えながらやるのがいいのかもしれない。

視点切り替え、距離切り替えが出来ると支援者は随分楽になると思う。