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アメノオト

人形の福祉屋の日々

ハレとケとケガレ、そして塩

先日、電話相談の職場で「夜勤は妙に疲れるんですよ…」みたいなことを言っていたら「夜勤は重い相談が来るし、負のエネルギーを吸い過ぎているんじゃないか?塩を持つといいと先輩から聞いたので持っている」と同僚に言われた。

塩。 僕は最初、塩でも食べたら元気が出るとかそういう話なのかと思っていたんだけど。この文脈での塩は、「清めの塩」的な発想だということが判る。 そりゃ、自殺関連の相談が多いだけにそういう発想にもなるのかもしれないが。でも、それを言った同僚は「死」=「清めの対象」という意味ではなく、「相談者に死を呼び込むようなモノ」=「清めの対象」としているらしく、普段の対面相談での仕事でもお守りのように塩を持っているのだとか。「ケース展開で、クライエントによくないことが起きないように、というジンクス的なモノだ」と言っていた。 まあ、勿論塩云々でケースが展開は左右されない。 僕らはプロな訳で。お守りみたいなものである。そういう話なのだ。 じゃあ、この「不吉なモノには塩」的な感覚ってどこから来るのかな。

 

この話を聞いていて、ふと柳田國男の「ハレ」と「ケ」の話を思い出した。ので民俗学的観点?で考えることにする。

「ハレ」とは「晴れ」だ。非日常である。冠婚葬祭とか。お祭りとか。季節行事とか。節目節目の行事。後は旅行とか。晴れの舞台とか、晴れ着とかの「晴れ」だ。

「ケ」とは「褻」だ。日常である。日々のルーティンワークとでも言えばいいのかな。仕事とか学校とか家事とか。僕の場合は病気の治療とかもケになるね。

「ケ」(日常)が遅れなくなった状態を「ケガレ(褻枯れ)」と呼ぶ。「ハレ」がプラスの非日常ならば、「ケガレ」はマイナスの非日常だ。この「ケガレ」状態は「ハレ」を以ってしてチャージしたりリセットかけたりすることが出来るそうな。そうすると、枯れた状態が回復して「ケ」が送れるようになると。

なんかこれ、エネルギー論になるのでうつ病の回復みたいな話よね(あくまでイメージ)。 この「ケガレ」は「穢れ」とも取ることが出来てこっちの方が「褻枯れ」よりも馴染んでいるよね。不浄なモノという意味だ。不浄なモノを祓うために塩で清める。というね。 葬式から帰ったら玄関の前で塩を掛ける。それって「死」が不浄だからだ。 でも、冠婚葬祭と言うぐらいだし、葬式とは「ハレ」だったのかもしれない。 ヒトの死を「ハレ」と取るのか「ケガレ」と取るのかはかなり価値観に左右される所ではあるよね。

 

話は戻って、自殺の相談が多いから「塩」を持つという話である。 自殺は死の中でもとりわけタブーみたいな取扱いになっている。家族も関係者も。その話を聴くことすらもタブーみたいな雰囲気がある。僕らはそういう相談を実行前の人も、実行されて失敗した人も、実行されてしまい遺された家族の人の話を、率先して受けるので死の話がメインだ。生きるとはなにか、死ぬとはなにか、そういう話を聴く。自分の死生観も当たり前に引き摺り出されるし向かい合わねばならない。 そういう場に身を置いていると、死そのものが不浄とはどうしても思えない。僕は元々医療畑だし、病死にしたって、その死は不浄にならない。となると、何を塩で祓うんだろう。そう考えると、「褻枯れ」状態こそ真に祓うべきものだよな、と思う。相談者を自殺に追い詰めるようなエネルギーの枯渇状態とか。枯渇するから日常が立ち行かなくなって自殺まで思いつめることになる。そういうモノを概念的に祓うということでの「塩」ならば、「死という穢れを祓う」よりは納得出来る。

まあ、僕らはプロであるし、塩に頼って祓うのではなく、専門性を以ってして「褻枯れ」状態をなんとかしていく、ということなんだけどもね。ただ、そういう技術が無い人達にとっての、「よくわからないけど良くないモノから身を守って欲しい、元気になって欲しい」という祈りや願いみたいなものは昔も今もあんまり変わらないのかもしれないな、と思った。 そんな訳で、お守り程度に住むなら塩でも用意して夜勤をこなそうかと思う。 深夜の仕事場はマジで恐いからである。僕はその手のモノは視える体質だしそういうの地味にこわいからである。じゃあなんで今まで塩を持ち歩いてなかったんだよ、という所であるが、全くそんなこと思いもつかなかったからである。しかも病院じゃないから油断していたというのもある。病院に勤めていた頃はマジでこわかったので色々持っていた。塩とか、お守りとか。

でも実際は、生きているヒトの方がよほど性質が悪いし、こわいんだけどね。