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アメノオト

人形の福祉屋の日々

『終末期と言葉』

終末期と言葉
終末期と言葉
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高橋 規子 小森 康永
金剛出版
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 待ちに待っていた本が昨晩届いて、深夜だというのに一気に読んだ。 前情報では、終末期の心理屋と友人である(主治医ではない)精神科医の往復書簡という話であって、死にゆく人の語り、当事者としてのナラティヴの実践が綴られている、という情報だった。 この二人は家族療法学会の人でもあるし、自分の師である田村先生とは縁のある人達だろう。

構成は三部構成。

第一部…われわれはどこから来たのか

第二部…われわれは何者か

第三部…われわれはどこへ行くのか

第一部は、それぞれの原家族の話。家族療法家は自分の原家族のことをよく知って居なければならない、という話は教わったけど、それが端的に書かれている。

第二部は、それぞれのセラピストとしての顔。ナラティブアプローチの話。このへん僕は専門外なので歴史的な流れとか深い所まではちょっと理解しきれない。文献が豊富に載っていて、それを全部読んだら大体わかるのかもしれないと思った。 そして、この本の企画が持ち上がった時のメールのやりとり。これは2011年の家族療法学会が終わった直後みたい。

第三部は、本の企画が立ち上がってから11月に高橋氏が亡くなるまでの二人のメールのやりとり。本の話と、高橋氏の治療選択の話、病状の話。亡くなる三日前までのメールが載っている。そして、高橋氏が病床で書いた最後の遺稿「Dの研究」。

 この「Dの研究」はなるほど!と思ってとても役立つと思った。これ、自分の受けているSVでも田村先生が似たようなことやったことがあって、それともリンクした。視点をずらすというか、1カメで観てたのを3カメで観よう!みたいな。対象は同じなんだけど。

 ◆

 内容は細かく書かないけど、僕は最初、もっと「死にたくない」とか「死ぬのがこわい」とか「治療がきつい」とか「痛いのは嫌だ」とか、そういう感情的な表出が入ってるんだろうかとか予想してたんだけど、そういうのは無かった。淡々と、淡々と治療のことや病状のことや、それと仕事の話がずっと続いて行った。最期のメールまで。 そういう感情が無い筈はないんだけれど(人間はそんなに強くできていないと思っている)、そのように表出しなくても小森氏から深い承認が得られているからそれで良いということなのかもしれない。もしくは表出しないことが高橋氏の在り様なのかもしれないし。

  でも内容は物凄くシビアだ。あの病状ではいつもギリギリだったと思う。メールが続く保証なんて6月の時点から無かっただろう。いつ死んでもおかしくないのに、でも次があるかのようなメールばかりだった。小森氏の返事と言うのも実に淡々としているんだけれどそれでも深い承認に満ちていて、ああいうメールがもらえるのはきっとエネルギーになったはずだ。

  僕はナラティヴアプローチも家族療法も概論的な所までしか学習が至っていないので、この本が、その理論的にどうなのか、というところまで思考が及ばないので、平凡な感想になってしまっていけないんだけど、僕はこの本は、死にゆく人のひとつの希望なんだと思っている。こういう形で自らの死をデザインし、語り、形に遺すというのはとても希望があることだ。

 少なくとも、病気を抱えてそう長くは生きられない自分にとっては世界がひっくり返るみたいな感覚だった。こういう形で死んで行けるならば喪失には絶望だけでない喪失しないと得られない希望があると思えたし、そのために得られるものは得ておこうというかなり前向きな気持ちになる(※喪失が嫌だ、と否定的であればあるほど、どうせ喪失するのだから何も得たくないという気持ちになるのである)

それって、この本にもあるディグニティセラピーとしてはものすごい成果なのだと思う。

◆(ここからは自分の話)

 これ読んで僕は、まっさきに「ああ、この高橋氏という人がとてもうらやましい」と思って、思って思って仕方なかったのである。ちゃんと死ぬまで生きている、と思ったしそれを支えてくれる人達が沢山居たし。

 僕は、こういう終わり方はとても良いと思っていて、自分もそうなりたいなあと思う。 自分の喪失だって十分、何か形作るための素材になるはずなのだと思っている。 だから、二番煎じでも良いからこういうの作りたいなあと思っている。 自分の死は自分でデザインして良いのならば、臨床的にも研究的にも利用出来たら良いと思う。臨床やってる者として。そういう在り方が良いと思っている。

 …こういう終わりの話、まだもう10年位先の話だとは思いたいけど最近、病状が悪いので考えておいても損はないと思う。 そういうの、田村先生に「一緒にやってよ!」と頼みたいんだけど、頼むにしては僕のレベルが低すぎるのでとても恥ずかしくまだ口に出来ない。こういう所で呟くのが関の山だ。