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人形の福祉屋の日々

『中高生のためのメンタル系サバイバルガイド』

中高生のためのメンタル系サバイバルガイド
中高生のためのメンタル系サバイバルガイド
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日本評論社 (2012-07-28)
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一時期盛り上がってた時にちゃんと買っておいたんだけど、記事にするの遅れちゃった。

松本俊彦先生編、ということで思春期の子ども達に対し愛ある内容が詰まっている。

これを思春期の子が読んで理解できるかどうかはともかく(理解できる子は出来るだろう)、一応、そのようなコンセプトで書かれているので比較的わかりやすく書かれている。

ということは、この業種ではない人にもとてもわかりやすいということで、是非領域外の人に読んでほしい一冊ではなかろうか。

で、これは学校に置いておくととても効果的と思う。流石にクラスとかには置いておけないだろうから、こっそりひとりで読めるような場所にあると尚良い。 行政機関や相談機関とかにも置いてあると良いのかもしれない。

精神科の待合には無い方が良いな(精神科の待合には逆にそういう本は無い方が良い)。

内容はホントさまざまで、執筆陣も豪華だった。 カテゴリ分けされている。 「毎日のくらし」、「恋愛と性」、「くすり」、「やめられない、とまらない」、「いのち」、「わるいこと」、「親のこと」に分かれている。

ほぼ、思春期の子供が詰まりそうな、かつ人に訊けなそうなことが載っている。

性の話だとか、くすりや自傷などはあるあるな話だと思ったけど、興味深かったのは「親のこと」というカテゴリ。 親の暴力だけじゃなくて、親が精神疾患、親が依存症というそういうトピックもある。これは時代だなあと思った。親が精神疾患、っていうのはもうありふれているんだなあと。

でも仕事してたら確かにそうだと思う。殆どそう。延々サバイバルしないといけない子供が生み出されているんだなと思う。

 

個人的にお気に入りの記事は小林桜児先生の大麻についての記事。診察風景っぽく作ってあって割と凝ってるなあと。面白いなあと思いました。他の記事もとても面白いし総論的に当たるにはとても良いと思う。広範囲にカバーしないといけないような電話相談などにも向くのかも。

 

松本先生のありがたいお言葉を最後に引用 「たしかにすべての大人が信頼できるとは思わないが、三人に一人は信頼できる大人がいる」

これは、思春期の子供に限らなくて、一般的なクライエントにも言えることだと思う。 諦めずに三人にはあたってみよう、というそのあり方は大切だと思う。 (3人あたって外れた人でもまだ頑張ろう、と松本先生は言っている。10人中3人がアタリだから、3人がハズレならアタリは残り7人の中にいるから、当たりやすくなっている、と)

『解離の心理療法』

実践入門 解離の心理療法―初回面接からフォローアップまで
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細澤 仁
岩崎学術出版社
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話題だった解離の本。と言うことで買って読んでみた。

僕が解離のことを語るのは当事者性を帯びるのでイマイチで、良くはないんだけど、そのへんを踏まえて読んで頂きたい。

 

まず、この本とても読みにくい。当事者性を帯びていたら特に読みにくいと思う。

僕はあんまりスッと読めなかった。色々と感情が蠢いていた。

「えー、それ違うでしょ!?」「なんでそういう決めつけ方すんの?」と怒ってみたり、 「解離の人はこのような目でTh.から見られているのか…」とがっくり来たり。 「こういう表現だと初学者が勘違いするじゃないか!」とやっぱり怒ってみたり。

…とまあ、怒ったり悲しんだりしていた。

そういう意味で心の中を乱暴に掻き乱してくれる本ではある。

そういう本は貴重であって、掻き乱れるということは本質には近いということかもしれない。

この本での話を読んで僕なりの解釈を書いてみる。

解離とは精神病水準の不安を回避するための手段、ということなわけだよね。

「精神病水準の不安」とは何か。それは乳幼児期における解体不安である。

「解体不安」とは何か。それは「死の不安」。言葉を持たない乳幼児の感じる死の不安、ということである。これは、母親が育児でちょっとした失敗をした瞬間などに起きる、ということのようだけど、これは乳幼児じゃないからよくわからん。多分、泣いてもミルクが来ない、とか。瞬間、母親の姿が見えない、とかそういう時に起こるんだろう。

で、この「精神病水準の不安」は、誰にでもあるということなわけで、 その後、もう少し成長してから起きる外傷的な局面が、解離を起こしてくる、という話。

じゃあ、その外傷的な局面て何?ってことで、繰り返し出てくる、 「母親のネグレクト的環境下で起きる、性的虐待の体験」というフレーズ。

ネグレクト的環境=本来守ってくれるはずの母親が不在=外的環境に期待できない

性的虐待=こころとからだがばらばらになる体験=自分のコーピングスキルを超えたヤバい状況

で、このどうしようもない状況はその乳幼児期の精神病水準の不安を刺激して、もう大変!!という感じになって、それを処理するために解離というシステムが動きだすということの様子。

…とまあ、これはよくわかる。しかし、著者も「トリガーは性的虐待に限らない」とはちゃんと書いているんだけど、本全体の章の中の喩えが全部、性的虐待で構成されているので、ななめ読みすると「ああ、解離性障害の人って性的虐待された経験があるんだ」という直線的な理解しちゃう人が出てくるんじゃないかと思う。

紛らわしいのでそういう喩えはいちいちフレーズとして要らんだろう、というのが僕の意見。「精神病水準の不安」でイイじゃん!と。

 

僕はこうして、今はもう支援者になっていてそこそこ人並み以上に平穏に暮らしている訳なんだけど、それゆえに結構、他の支援者に不躾な質問をされる機会はある訳で、解離性障害ってことは性的虐待があったんですか?」みたいなどストレートなデリカシーに欠ける質問を受けることがある。

こういう質問をする支援者は正直、支援者を辞めた方が良いんじゃないかと思うけど、そこは黙ってニコニコ回答している。

そういうステレオタイプ的フレーズとはあちこちの専門書から吸収されてくるのだろうけど、つまりそういうふうな目でCl.のこと最初から見てる訳よね。そんな人に自分の心を開示する訳ねーよ!と思うんだよ。

Th.とCl.の出会いとはもっと真っ白から始まらないといけないと思う。(これはこの本にも書いてあった)

実践のプロセスについては、丁寧に書いてあるんだけど、ベースが精神分析なので他の技法を使ってる場合は、その技法のプロセスで考えて変換して行くという作業が必要。

それを踏まえて読むと、精神分析って独特だなあと思う。僕は精神分析を詳しく勉強している訳じゃないし、そのへんについてはよくわからない「ふーん、そうなんだ」ぐらい。ただ、精神分析精神分析心理療法解離性障害の相性はあまり良くないんじゃないかと思う。その「精神病水準の不安」が増幅されるという点であまり良くないような気がする。解離システムにとってもあまり優しいとは言えない気がする。気がするだけだけど。

文脈として、解離システム皆でやっていく、という文脈ではないことはわかる。いつのまにか交代人格は居なくなっていくような感じで。 ナラティヴとかSFAとかCBTだとそのような文脈じゃないんだよね。 上手くやって来たことを伸ばして行く、上手く行かないことを工夫して行くという感じで、システムがどうかとかはそうは影響して来ない。 このへんは、解離システムを統合するのが良いのか、バラでもいいのかという話になり、もう拡大していくので割愛。ちなみに、僕はバラでも良いと思う。日常が回るならね。

ここでは「セラピストに求められるのは根性」という話もあって、それもまあそうかな、と思ったり、でも、精神分析心理療法の実践で果たして根性が発揮されているのか、とか、この本のケースを見る限りでは思う。だって、状況があまり変わらないのに打ち切りしてる。それって根性足りないんじゃないの?とかふっと思ってしまう。

解離性障害の人に対するセラピーで大切なのは、「Holdingし続ける根性」だとは思うんだけど、精神分析ではHoldingの感じはないような。技法的なモノなのか、この本だけそうなのかわからないけど。 どうにもならない時、どうにもならない感を共有する、というのはどの技法でもどの職種でも求めらていることだなと思う。

交代人格の取り扱いの話。これもまあ色々色々思う所はあるけれど、僕はまあ…名前ぐらいは呼んでほしいと思うんです。そういうふうなことを書いてある本は殆ど見ませんけど(どの本にも交代人格を個別に取り扱わない方が良いと書いてある)。個別に扱わないのと、存在を認識しないのとはまた別物だけど、ごっちゃにしてるTh.は多いと思う。

名前呼ばれないことがどれだけきついかってことは、多くのTh.はよくわかっていない。目の前に居るのに常に存在を無視されているということであるよ。無視するくせに色々指示的にアレコレ言ってくるというのは全然関係として成り立たないんだけど、Th.はそれが当然と思っている節がある。

僕の言うことは多分物凄くマイノリティでもあるし、所詮は当事者の戯言ではある。しかし、もう少し深く考えて欲しいとも思うんだ。

 

という色々考えさせられた本ではある。 結構しんどいよね。僕が自分のことを開示した時(Twitterでは殆ど開示しているが)、同業者からどう見られるのか(見られているのか)ということがよくわかる本であった。

でも、基礎的なことは丁寧に書いてあるからとても参考になると思うよ!

この本の解離性障害の人に対するまなざしについては僕はちょっと気に入らないです。

そんな本でした。

SFAと電話相談の可能性

SFAの勉強に行ってきて、初めてしっかりその技法の哲学的な所を教わって来た。

SFAとは解決志向アプローチと訳され、対義語は、問題志向アプローチ。

通常の生活においては問題志向アプローチで思考することが多い。

「問題はとある原因から起きているので、その原因を除去して行こう」という考え方。

解決志向アプローチは、原因の除去ではなくその問題の解決方法を伸ばして行く考え方。 問題を抱えている中、たまに起こる「例外」(問題が起きない時、上手く行っている時)を抽出して、それを分析し、例外が起こる頻度を増やしていく。例外が日常になれば自然と問題が解決するというやり方。

 

これの利点は「会話が成り立つ場所ならば、どこでも出来る」という所。

面接室のようにかっちり構造化しなくても、日常のひとコマ(5分、10分)でも可能という所。

SFAの基本構造は質問で成り立っている。

その人のことはその人自身が専門家であり、支援者はインタビューの専門家としてあればよく、その人の力を引き出せばいいのだ、と。

 

問題が解決したら、今とどのように生活が変わるのか?どんなふうになるのか?

今の生活の中でその状況にちょっと近いかも…?って時はあるか?

それはどんな時か?

それはいつもとどう違っているのか?

…というふうに、問題の中にあるいつもと違う例外(よかったこと)を探して、それを増やしていくのが基本構造。

それがあると、普段とどう違うのか?何故そうなのか?というふうに訊いて行く。

どうやって、生き延びてきたのか?どうやって凌いできたのか?どうしてそれは可能だったのか?

ワークもやってみたけど、結構考えさせられた。

いつも自分は変化してないと思っていたけど結構変化してたからだ。

 

「変化しないことは通常の生活では有り得ない」

「変化しないことにクライエントは困って支援者の所に来る」

変化を促し、良き変化をふやしていく技法であり、その人のリソースに目を向ける技法。

 

これ、電話相談と結構相性が良いんじゃないのかな、と感じた。

電話相談では割と不毛なやり取りが展開する。

「何かアドバイスください」「どうしたらいいですか」と。

こういう問いが来た時に、「××してみては?」などと提案しても事態は悪化するばかり。 「そんなのもうやってます!」 「専門家なのにそんなことも言えないの!?」と怒りが飛んでくる。 (えー、訊いてきたのそっちじゃん…)とは思うんだけども、提案すると大体みんなこんな感じ。

 

そこで、「じゃあ、今までこういう時、あなたはどうやって凌いできたんですか?」と訊き返すと、あら、スラスラと武勇伝が語られるじゃないか。

「…ほうほう。それは上手いですね。、じゃあ、そのやり方、今回も使えるんじゃないんですか?」と返すと、大体それでキレイに電話が終わる。

皆、自分のやり方があるんだよね。それを見つけてフィードバックして強化してやれば良いのだ。

…というのが、電話相談の技法としてあったのだけど、これってまんまSFAじゃん!と言う話。 今日はそこがすっかりつながって、「ああ、この背景はこういう理屈だったんだ」と合点。 これをもう少し体系的にやれれば、構造が弱い(継続性がない)電話相談の枠内でも十分そのクライエントの力を引き出せるかもしれないなあと思ったのだ。もう少しブラッシュアップしていって、電話相談のスキルにどう組み合わせるかってのは色々考えると面白そう。

相談員の養成に関してもかなり短期間で底上げが可能な感じがする。心理と福祉の知識を大量に入れ込むのはかなり時間コストがかかるからだ。これだったら、相手の力を引き出すことが中心なので心理、福祉、医療、法律…と広範囲の知識が少ない相談員でもそれなり形に仕上がる可能性は高い。

そんな訳で、自分でもう少し勉強したら、電話相談の場で、試験的に導入してみようと思っている。幸いそういうことができるフィールドはいくつもあるし、これは楽しみだなあ、と今からワクワクしている。

 

(※勿論、電話相談のクライエントには結構捻じれている人も居るのでこれを使うとより逆上するタイプの人も存在する。「そうやっこっちから引き出そうなんて、お前は何も知らないんだろ?」みたいな批判に発展する場合もある。そのタイプの人はちなみに知識を展開しても怒るし、相手の力を引き出そうとしても怒るし、黙っても怒るし、怒ることがデフォルトの人だったりする。それはそういうコミュニケーションの方法なので普通に怒られつつ、糸口を見つけて行くことになる)

最期の時、傍らには誰が居る?

電話相談では身体疾患を抱えた人の相談もよく受けるのだけど、そこでは大抵は死生観の話になることが多い。

何故ならば皆死期が近いから。突発的に死ぬかもしれないから。 もしくは抱えた病気は治らないからである。

 

「ベッドサイドの傍らで何も言わなくて良いから、手をずっと握っていて欲しい。そういう人が欲しい。そういう人がいない」

 

これは、孤独感の話だ。死に方の話でもあるから、孤独な死が嫌だってことだよね。 誰か自分のことを大事に思ってくれる人に見送られて死にたいというのは当然だ。

ひとりぼっちで病気と共にある人達は、いつも手を虚空に伸ばしていると思う。

その手を掴んでくれる人を探している。

電話相談では支援の枠に限界がある。

自殺を実行していたら、電話がつながってももう助けられないこともある。

その人を死から引っ張り上げることが不可能だとわかった時、僕らの仕事はその人の最期の声を聴く役目に変わる。

最期の、死に際の声を聴くのは重い。

ただ、そこでどんな言葉を紡ぐのか、聴くのかということで、 その人の死が少しでも肯定的な意味合いに変換されれば良いと。

孤独だから死を選んだその結末に誰かが誠実に寄り添うならばそれはまだその死を選んだ人にとって救いのある話なのかもしれない。

救いなんて無いんだけど、これは遺された支援者のためにそういう解釈をするということだ。

もっとそうなる前に止めるべきなんだよね。ホントはね。

Cl.への個人的感情の取り扱い

クライエントに向ける感情について。

仕事の時は基本的に肯定的ではあるんだけども、じゃあ、個人としてどうかと見た時に個人的価値観の下において肯定的ではいられない相手も居る。

僕は別に個人的感情と、仕事での対応と一致してなくて良いと思うんだけども。

仕事が滞りなく出来る範囲にその感情がコントロールされてれば。

 

色々なクライエントが居る。

ゴミ屋敷の主とか。

人を殺したことがある人とか。手酷く暴行する人とか。

何度も子供を虐待してる人とか。

父親のわからない子供を何人も産む(皆産まれたらすぐ施設)人とか。

色々だ。

その家族も色々。

頭ごなしに罵倒されたりとか。

イイ感じでクライエントが成長してきているのにあっさりぶち壊す人とか。

 

こういう感じのケースばかり関わると、流石に瞬間的に「みんな良い人」とは全く思えない。

瞬間的には「なにこのひと」みたいな気分になる。

治療や支援が入ってそこそこ安定している人(デイケアや作業所や地活などに通所できるレベル)はそんなもやもや感からはある程度離れている。

そういう支援に乗る前の人への対応では平和な感覚ではいられなかったりする。

 

地域の荒事をやっていると、命がけだ。

怪我しそうになったり死にそうになったりした時、その相手に好意的に出来るかっていうと個人的感情レベルでは全く無理だ。

同僚には、暴力を受けて再起不能になったり、刺された人も居るし。

そんな後、その当人に何も感じない人は居ないでしょ。

「許せない」と思ったり「自分もそんなふうになるんだろうか」と思ったり。

 

そういう場は存在している。

それでも、個人的感情でも肯定的、仕事でも肯定的で居られるんだろうか。

一致するんかな?

でも、仕事はしなくちゃいけない。

個人的感情ではこう思う、支援ではこう入る、と分けている。

そうしないと、難しいのだ。

勿論一致して出来るならそれはそれで良い訳で。

ただ、それはかなり平和で、支援者の当事者性を刺激しないタイプのケースということになるよね。

 

臨床をしていると、苦手なタイプのケース、クライエントは必ず出てくる。

苦手なケースが出てくることは悪いことではないし当たり前のことだと思う。

それに対応できなくなることが、マズイのだ。

 

どうやって対応していくのかということが、支援者生命を延ばすためには重要と思う。

ここで自分の感情から目を逸らして蓋して無理をすると、あっという間に支援者生命が尽きる(仕事できなくなる)。

 

プロセス的には

1、何故苦手なのか嫌と思うのか、という所について掘り下げる

 →そこで、自分の帯びている当事者性がわかる

 →自分の当事者性を見る。ある程度調整する

2、わかったところで、その後の対応について検討する

 →どうやって、感情面の揺れをコントロールするのか

 →適切な支援について、妨げるものは何か

3、その後

 →どうしてもダメなら自分のメンテナンスする

 →支援者交代など物理的対策も検討する

 

どんな人にも、支援者としての自分の持てる支援を等しく提供できなければならない。 そのために何が必要なのかを知っている方が良いと思う。

 

自分の居た大学で散々言われていたのが、

自分にとってどういう人が苦手なのか、どうして苦手なのかわかる→学生レベル

その苦手な人に、適切な支援が提供出来る→臨床出ていいレベル

 

個人的価値観の下で肯定できるかどうかって影響させてはいけないよな。

それはそれ、という考え方。

でも、日常とクライエントの橋渡し役である以上、個人的価値観もそれなりの指標にはなる。

なんでもかんでも肯定しててもその人が日常からはみ出てしまったら意味がないし。 肯定しつつもここはズレてるとか、これは許容されないだろうとか、色々考えたりして摺り寄せることも必要。

バランスは難しい。

両方の視点をカチカチ切り替えながらやるのがいいのかもしれない。

視点切り替え、距離切り替えが出来ると支援者は随分楽になると思う。

電話相談とイタズラ電話

Q:電話相談ってイタズラ電話はどれぐらいあるの?

という話が某所で話題になったのでカテゴリ別に挙げてみようと思う。

(※なお、やり取りは実際のやり取りから雰囲気が伝わるようにそれっぽく書き起こしたモノなので実際の相談内容そのままではありません。念のため)

◆セクハラ系電話

その1:猥談系

「ねえねえ、相談員さん今日のパンツ何色なの?」

「相談員さんって一人エッチとかするの?」

「一人で居る時さみしくならない?」

「これから待ち合わせしてどこかで会おうよ」

その2:電話向こうでマスターベーションされてる系

「ハァハァハァ…(ずっと息切れ)」

「(それっぽい悩み相談をしているのであるが、どうも息が荒くなって「ウッ」とか微妙に入るパターン)」

「僕が射精するのを聴いててください」

その3:性の悩みを装った猥談系

「セックス依存で困っている」

「セックスレスで困っている」

「マスターベーション依存で困っている」

「痴漢癖があって困っている」

「露出癖があって困っている」

(いずれも物凄く詳細な性描写が切々と語られていく。擬音語がリアル)

◆普通のイタズラ電話

その1:電話に出るとAVが流れていたり、宗教音楽、お経などが流れるパターン

人の気配がするので結構気味が悪い。

その2:ワンギリ電話

電話取ると此方が喋る前に切れる…が延々1時間ぐらい続く。回線圧迫され他の電話が取れない

◆脅迫系

「電話相談の場所を知っている。今からお前を殺しに行くからな!」

「電話相談の場所を今から襲撃する」

「おまえが誰だか知っている。家を襲撃する」

◆怒り炸裂系

最初から怒っている。怒っている理由は、「おまえの声が気に入らない」「おまえの性別が気に入らない」「おまえの言葉づかいが気に入らない」「この電話相談が気に入らない」等延々と怒りを一方的にぶつけられるパターン

 

ざっと思い浮かぶ所でこれぐらいのパターンがある。 先日の記事にも書いたが、「さっき首つり失敗した」「これから飛び降りる」系の希死念慮MAXの電話とこの、どうにもならんイタズラ電話がほぼ同じ比率で掛かってくる。電話をとってみるまで何が来るかわからないので、イタズラ電話に耐性がない相談員は瞬く間に心を蝕まれてしまうのである。

僕は比較的セクハラ電話は平気な方なのであまり困らない。 流石に、マスターベーション実況は不快だけど。

こういうの女性の相談員がターゲットになりやすいかといえばそうでもなく、男性の相談員も逆パターンでターゲットにされる。性別は食い物にされやすい。

いちばん難しいのは「性の悩みを装ったイタズラ電話」である。これをやってくる掛け手は電話相談の性質をよく知っており悪質である。 これはよく訓練されてくると、大体イタズラ電話かホントに悩んでいるのかすぐわかるようになるが、経験が浅いと最初はだいたい引っ掛かるので、長々聞いて「あっ!!」と気付いた時には電話の向こうの相手がマスターベーションし終わって果てている、などというような惨事になる(その時点で気付くと遅い)。

これはどれぐらい、現実味のある話なのか、それをどうしてここで相談したいのか、という視点で淡々と聴いて行くとハマらないで済む。変に共感的に聴きはじめるとハマるのだ。

こういう所の訓練がイマイチだったり、性的なエピソードになにか当事者性を帯びている相談員はこれらの直撃を受けるため、大体電話相談が嫌になってしまうのだ。

 

ひとつ、イタズラ電話の対応について思っていることがあって、こういうイタズラ電話をする人達はやり方はどうも社会的に好ましくはないが、何らかの人との接触が欲しいのだ、そういう表出しか出来ないタイプの人かもしれない、と思って対応すると少しだけこれらの事象に寛容になる。勿論、そういうイタズラ電話を許容する訳じゃないしぶっちゃけ迷惑であるが、プンプン怒って対応するよりはもう少し楽になる、という所。

 

電話相談は、常に開かれている。誰でもいつでもかけてよい。名前を言わなくても良い。それは真にその構造枠でなければ語れない人にとってはとても良い構造なのだが、それの負の側面としては常にこのような悪意にもさらされているのである。それでも、掛けてくる人をはじめから制限しないということが、電話相談の大前提なのだ。

電話相談と希死念慮

電話相談の仕事では、自殺を実行しようとか実行中もしくは失敗直後の人が電話を掛けてくることがある。

というか、電話相談は自殺に特化していることが多いので殆どこれだ。

もしくは希死念慮レベル「死にたい」(具体的でない)とか。

「死にたい」は「死にたいほどつらい」であることが多く、具体性に欠けている場合は、話をしているうちに「何の話をしたかったんだっけ?」みたいになって電話が終わる。

しかし、逼迫している場合はそんな何となくではマズイ。

「今首吊ったんですけど、紐が切れた。どうしよう」

「家にあった薬、中身見てないけど500Tぐらい飲んだ」

「手首をはさみで切ったら血管が切れてあたりが血の海になっている」

「部屋を目張りしてガス栓をひねった」

「車の中で練炭をたいている」

「ビルの屋上に来た」

「踏切の前に居る」

様々だ。これがホントかどうか第一声ではさっぱりわからない。 まずはあれこれと置かれた状況を訊いて行く。この状況でのんびり傾聴していても命に関わる(傾聴と状況確認のバランス感覚重要)。 いつ実行したのか、その場にはひとりなのか、連絡取れる人はいるのか、病院はどこか、等々。

話しているうちに、なぜそのようなことになったのか、を相手が話してくれる場合がある。 色々と事情があるが、僕が聴く範囲では物凄い簡単な環境調整レベルで解決する話もある。

「えっ…!そんな解決方法があるんですか!」とさっきまで首つってた人がキラキラと声に張りが出てくる。

(そんなことでアッサリ死なないでくれよ……)と脱力する。

この人はこの電話につながったから運が良かったなあ。

それで死んでたかもしれないんだから。

そういう時、「こうやって、誰かと一緒に考えればいい案が浮かぶこともあるんだし、ひとりで悩んで死んじゃうの、勿体ないですよ」と言う。

これは結構本気でそのように思う。

 

これは、何とかなるタイプの話。

毎日毎日自殺企図を起こして電話してくる人も居る。

毎日OD、毎日自傷。救急車ももうお断りされるようなそういう感じの人達も居る。

この人達は一体何が目的なのか。

自殺したいという割には毎日毎日、同じ手段だ。

抗不安薬10Tとか、自殺するにしても微妙にやる気が無いのである。

もしかして、プロセス嗜癖みたいになっているのでは、と一瞬思ったりする。

電話相談は、真偽を問いただすことが出来ない性質なので、基本的に最悪の状況が起こらないように振る舞うことになっている。

となると、結構優しいのである。相談員によっては割と心配するし。

対面でかかわっていたら依存を引き起こさない程度に枠付けできるような状況でも、電話相談だと難しく、ズルズルと依存を引き起こす場合もある。

そうすると、自殺じゃなくて自殺企図によって心配して貰うことが目的になる。

 

それでも、そんなことしないと誰ももう気に留めてくれないんだろうという状況には色々と思う所もある。

直で関わる支援者に冷たくあしらわれていることもある。

(それは病院の選定から失敗しているような場合もある)

人に相手にされなければ色々なアピールはどんどんエスカレートするし、エスカレートするたび、傷を負うのである。それで他人も自分も嫌いになる。

 

だから、そんなこと毎日しなくたって、あなたのことは心配だし、気にかけている、と電話でせっせとメッセージを送って行くうちに上手く回復することもある(しないこともある)。

 

電話相談に時間が許す限りずっと掛けてくるような人達は、人格水準がかなり下がっていて、ひとりで形を保っていられるようになるまでには結構時間を要する。対面相談につなげたくてもほとんどの場合つながらない。大体皆耳に痛いことを言うからだ。電話相談では殆ど言われないからそれになれていると、直接的な支援がハードモードになってしまう。

僕そういうの嫌なので、あまり甘々にしない。

それなりに痛いことも言うし、グズグズにしないよう現実的な枠で話をしている。

だけど、言って欲しいことを言われるまで電話を切らない人も居るので困る。

僕はそれでも言わないんだけど。

電話相談の相談員の中には、過度に迎合する奴が居るのでそういう奴が依存を引き起こすのだ。 ごく一般的なヒトとヒトとのやりとりの枠で会話しないと上手く行かなくなる。 一度枠を崩してしまった場合、立て直すのに相当な時間コストを要する。 そのへんは、現実の構造枠を崩したりした時の大惨事とよく似ていると思う。

 

必要なのは、その人の悩みや苦悩を魔法みたいに解決することでもなく、その人が自分の力で解決できるよう関わることじゃないのかなあ、と思う。