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アメノオト

人形の福祉屋の日々

最期の時、傍らには誰が居る?

電話相談では身体疾患を抱えた人の相談もよく受けるのだけど、そこでは大抵は死生観の話になることが多い。

何故ならば皆死期が近いから。突発的に死ぬかもしれないから。 もしくは抱えた病気は治らないからである。

 

「ベッドサイドの傍らで何も言わなくて良いから、手をずっと握っていて欲しい。そういう人が欲しい。そういう人がいない」

 

これは、孤独感の話だ。死に方の話でもあるから、孤独な死が嫌だってことだよね。 誰か自分のことを大事に思ってくれる人に見送られて死にたいというのは当然だ。

ひとりぼっちで病気と共にある人達は、いつも手を虚空に伸ばしていると思う。

その手を掴んでくれる人を探している。

電話相談では支援の枠に限界がある。

自殺を実行していたら、電話がつながってももう助けられないこともある。

その人を死から引っ張り上げることが不可能だとわかった時、僕らの仕事はその人の最期の声を聴く役目に変わる。

最期の、死に際の声を聴くのは重い。

ただ、そこでどんな言葉を紡ぐのか、聴くのかということで、 その人の死が少しでも肯定的な意味合いに変換されれば良いと。

孤独だから死を選んだその結末に誰かが誠実に寄り添うならばそれはまだその死を選んだ人にとって救いのある話なのかもしれない。

救いなんて無いんだけど、これは遺された支援者のためにそういう解釈をするということだ。

もっとそうなる前に止めるべきなんだよね。ホントはね。

Cl.への個人的感情の取り扱い

クライエントに向ける感情について。

仕事の時は基本的に肯定的ではあるんだけども、じゃあ、個人としてどうかと見た時に個人的価値観の下において肯定的ではいられない相手も居る。

僕は別に個人的感情と、仕事での対応と一致してなくて良いと思うんだけども。

仕事が滞りなく出来る範囲にその感情がコントロールされてれば。

 

色々なクライエントが居る。

ゴミ屋敷の主とか。

人を殺したことがある人とか。手酷く暴行する人とか。

何度も子供を虐待してる人とか。

父親のわからない子供を何人も産む(皆産まれたらすぐ施設)人とか。

色々だ。

その家族も色々。

頭ごなしに罵倒されたりとか。

イイ感じでクライエントが成長してきているのにあっさりぶち壊す人とか。

 

こういう感じのケースばかり関わると、流石に瞬間的に「みんな良い人」とは全く思えない。

瞬間的には「なにこのひと」みたいな気分になる。

治療や支援が入ってそこそこ安定している人(デイケアや作業所や地活などに通所できるレベル)はそんなもやもや感からはある程度離れている。

そういう支援に乗る前の人への対応では平和な感覚ではいられなかったりする。

 

地域の荒事をやっていると、命がけだ。

怪我しそうになったり死にそうになったりした時、その相手に好意的に出来るかっていうと個人的感情レベルでは全く無理だ。

同僚には、暴力を受けて再起不能になったり、刺された人も居るし。

そんな後、その当人に何も感じない人は居ないでしょ。

「許せない」と思ったり「自分もそんなふうになるんだろうか」と思ったり。

 

そういう場は存在している。

それでも、個人的感情でも肯定的、仕事でも肯定的で居られるんだろうか。

一致するんかな?

でも、仕事はしなくちゃいけない。

個人的感情ではこう思う、支援ではこう入る、と分けている。

そうしないと、難しいのだ。

勿論一致して出来るならそれはそれで良い訳で。

ただ、それはかなり平和で、支援者の当事者性を刺激しないタイプのケースということになるよね。

 

臨床をしていると、苦手なタイプのケース、クライエントは必ず出てくる。

苦手なケースが出てくることは悪いことではないし当たり前のことだと思う。

それに対応できなくなることが、マズイのだ。

 

どうやって対応していくのかということが、支援者生命を延ばすためには重要と思う。

ここで自分の感情から目を逸らして蓋して無理をすると、あっという間に支援者生命が尽きる(仕事できなくなる)。

 

プロセス的には

1、何故苦手なのか嫌と思うのか、という所について掘り下げる

 →そこで、自分の帯びている当事者性がわかる

 →自分の当事者性を見る。ある程度調整する

2、わかったところで、その後の対応について検討する

 →どうやって、感情面の揺れをコントロールするのか

 →適切な支援について、妨げるものは何か

3、その後

 →どうしてもダメなら自分のメンテナンスする

 →支援者交代など物理的対策も検討する

 

どんな人にも、支援者としての自分の持てる支援を等しく提供できなければならない。 そのために何が必要なのかを知っている方が良いと思う。

 

自分の居た大学で散々言われていたのが、

自分にとってどういう人が苦手なのか、どうして苦手なのかわかる→学生レベル

その苦手な人に、適切な支援が提供出来る→臨床出ていいレベル

 

個人的価値観の下で肯定できるかどうかって影響させてはいけないよな。

それはそれ、という考え方。

でも、日常とクライエントの橋渡し役である以上、個人的価値観もそれなりの指標にはなる。

なんでもかんでも肯定しててもその人が日常からはみ出てしまったら意味がないし。 肯定しつつもここはズレてるとか、これは許容されないだろうとか、色々考えたりして摺り寄せることも必要。

バランスは難しい。

両方の視点をカチカチ切り替えながらやるのがいいのかもしれない。

視点切り替え、距離切り替えが出来ると支援者は随分楽になると思う。

電話相談とイタズラ電話

Q:電話相談ってイタズラ電話はどれぐらいあるの?

という話が某所で話題になったのでカテゴリ別に挙げてみようと思う。

(※なお、やり取りは実際のやり取りから雰囲気が伝わるようにそれっぽく書き起こしたモノなので実際の相談内容そのままではありません。念のため)

◆セクハラ系電話

その1:猥談系

「ねえねえ、相談員さん今日のパンツ何色なの?」

「相談員さんって一人エッチとかするの?」

「一人で居る時さみしくならない?」

「これから待ち合わせしてどこかで会おうよ」

その2:電話向こうでマスターベーションされてる系

「ハァハァハァ…(ずっと息切れ)」

「(それっぽい悩み相談をしているのであるが、どうも息が荒くなって「ウッ」とか微妙に入るパターン)」

「僕が射精するのを聴いててください」

その3:性の悩みを装った猥談系

「セックス依存で困っている」

「セックスレスで困っている」

「マスターベーション依存で困っている」

「痴漢癖があって困っている」

「露出癖があって困っている」

(いずれも物凄く詳細な性描写が切々と語られていく。擬音語がリアル)

◆普通のイタズラ電話

その1:電話に出るとAVが流れていたり、宗教音楽、お経などが流れるパターン

人の気配がするので結構気味が悪い。

その2:ワンギリ電話

電話取ると此方が喋る前に切れる…が延々1時間ぐらい続く。回線圧迫され他の電話が取れない

◆脅迫系

「電話相談の場所を知っている。今からお前を殺しに行くからな!」

「電話相談の場所を今から襲撃する」

「おまえが誰だか知っている。家を襲撃する」

◆怒り炸裂系

最初から怒っている。怒っている理由は、「おまえの声が気に入らない」「おまえの性別が気に入らない」「おまえの言葉づかいが気に入らない」「この電話相談が気に入らない」等延々と怒りを一方的にぶつけられるパターン

 

ざっと思い浮かぶ所でこれぐらいのパターンがある。 先日の記事にも書いたが、「さっき首つり失敗した」「これから飛び降りる」系の希死念慮MAXの電話とこの、どうにもならんイタズラ電話がほぼ同じ比率で掛かってくる。電話をとってみるまで何が来るかわからないので、イタズラ電話に耐性がない相談員は瞬く間に心を蝕まれてしまうのである。

僕は比較的セクハラ電話は平気な方なのであまり困らない。 流石に、マスターベーション実況は不快だけど。

こういうの女性の相談員がターゲットになりやすいかといえばそうでもなく、男性の相談員も逆パターンでターゲットにされる。性別は食い物にされやすい。

いちばん難しいのは「性の悩みを装ったイタズラ電話」である。これをやってくる掛け手は電話相談の性質をよく知っており悪質である。 これはよく訓練されてくると、大体イタズラ電話かホントに悩んでいるのかすぐわかるようになるが、経験が浅いと最初はだいたい引っ掛かるので、長々聞いて「あっ!!」と気付いた時には電話の向こうの相手がマスターベーションし終わって果てている、などというような惨事になる(その時点で気付くと遅い)。

これはどれぐらい、現実味のある話なのか、それをどうしてここで相談したいのか、という視点で淡々と聴いて行くとハマらないで済む。変に共感的に聴きはじめるとハマるのだ。

こういう所の訓練がイマイチだったり、性的なエピソードになにか当事者性を帯びている相談員はこれらの直撃を受けるため、大体電話相談が嫌になってしまうのだ。

 

ひとつ、イタズラ電話の対応について思っていることがあって、こういうイタズラ電話をする人達はやり方はどうも社会的に好ましくはないが、何らかの人との接触が欲しいのだ、そういう表出しか出来ないタイプの人かもしれない、と思って対応すると少しだけこれらの事象に寛容になる。勿論、そういうイタズラ電話を許容する訳じゃないしぶっちゃけ迷惑であるが、プンプン怒って対応するよりはもう少し楽になる、という所。

 

電話相談は、常に開かれている。誰でもいつでもかけてよい。名前を言わなくても良い。それは真にその構造枠でなければ語れない人にとってはとても良い構造なのだが、それの負の側面としては常にこのような悪意にもさらされているのである。それでも、掛けてくる人をはじめから制限しないということが、電話相談の大前提なのだ。

電話相談と希死念慮

電話相談の仕事では、自殺を実行しようとか実行中もしくは失敗直後の人が電話を掛けてくることがある。

というか、電話相談は自殺に特化していることが多いので殆どこれだ。

もしくは希死念慮レベル「死にたい」(具体的でない)とか。

「死にたい」は「死にたいほどつらい」であることが多く、具体性に欠けている場合は、話をしているうちに「何の話をしたかったんだっけ?」みたいになって電話が終わる。

しかし、逼迫している場合はそんな何となくではマズイ。

「今首吊ったんですけど、紐が切れた。どうしよう」

「家にあった薬、中身見てないけど500Tぐらい飲んだ」

「手首をはさみで切ったら血管が切れてあたりが血の海になっている」

「部屋を目張りしてガス栓をひねった」

「車の中で練炭をたいている」

「ビルの屋上に来た」

「踏切の前に居る」

様々だ。これがホントかどうか第一声ではさっぱりわからない。 まずはあれこれと置かれた状況を訊いて行く。この状況でのんびり傾聴していても命に関わる(傾聴と状況確認のバランス感覚重要)。 いつ実行したのか、その場にはひとりなのか、連絡取れる人はいるのか、病院はどこか、等々。

話しているうちに、なぜそのようなことになったのか、を相手が話してくれる場合がある。 色々と事情があるが、僕が聴く範囲では物凄い簡単な環境調整レベルで解決する話もある。

「えっ…!そんな解決方法があるんですか!」とさっきまで首つってた人がキラキラと声に張りが出てくる。

(そんなことでアッサリ死なないでくれよ……)と脱力する。

この人はこの電話につながったから運が良かったなあ。

それで死んでたかもしれないんだから。

そういう時、「こうやって、誰かと一緒に考えればいい案が浮かぶこともあるんだし、ひとりで悩んで死んじゃうの、勿体ないですよ」と言う。

これは結構本気でそのように思う。

 

これは、何とかなるタイプの話。

毎日毎日自殺企図を起こして電話してくる人も居る。

毎日OD、毎日自傷。救急車ももうお断りされるようなそういう感じの人達も居る。

この人達は一体何が目的なのか。

自殺したいという割には毎日毎日、同じ手段だ。

抗不安薬10Tとか、自殺するにしても微妙にやる気が無いのである。

もしかして、プロセス嗜癖みたいになっているのでは、と一瞬思ったりする。

電話相談は、真偽を問いただすことが出来ない性質なので、基本的に最悪の状況が起こらないように振る舞うことになっている。

となると、結構優しいのである。相談員によっては割と心配するし。

対面でかかわっていたら依存を引き起こさない程度に枠付けできるような状況でも、電話相談だと難しく、ズルズルと依存を引き起こす場合もある。

そうすると、自殺じゃなくて自殺企図によって心配して貰うことが目的になる。

 

それでも、そんなことしないと誰ももう気に留めてくれないんだろうという状況には色々と思う所もある。

直で関わる支援者に冷たくあしらわれていることもある。

(それは病院の選定から失敗しているような場合もある)

人に相手にされなければ色々なアピールはどんどんエスカレートするし、エスカレートするたび、傷を負うのである。それで他人も自分も嫌いになる。

 

だから、そんなこと毎日しなくたって、あなたのことは心配だし、気にかけている、と電話でせっせとメッセージを送って行くうちに上手く回復することもある(しないこともある)。

 

電話相談に時間が許す限りずっと掛けてくるような人達は、人格水準がかなり下がっていて、ひとりで形を保っていられるようになるまでには結構時間を要する。対面相談につなげたくてもほとんどの場合つながらない。大体皆耳に痛いことを言うからだ。電話相談では殆ど言われないからそれになれていると、直接的な支援がハードモードになってしまう。

僕そういうの嫌なので、あまり甘々にしない。

それなりに痛いことも言うし、グズグズにしないよう現実的な枠で話をしている。

だけど、言って欲しいことを言われるまで電話を切らない人も居るので困る。

僕はそれでも言わないんだけど。

電話相談の相談員の中には、過度に迎合する奴が居るのでそういう奴が依存を引き起こすのだ。 ごく一般的なヒトとヒトとのやりとりの枠で会話しないと上手く行かなくなる。 一度枠を崩してしまった場合、立て直すのに相当な時間コストを要する。 そのへんは、現実の構造枠を崩したりした時の大惨事とよく似ていると思う。

 

必要なのは、その人の悩みや苦悩を魔法みたいに解決することでもなく、その人が自分の力で解決できるよう関わることじゃないのかなあ、と思う。

ラベル貼りとラベル剥がし

最近(でもないか)、ラベルが多いよね、と思う。

次から次へとラベルが出来上がる。 執筆熱心なセンセイ方のおかげと言うべきか(反吐が出ますね)。

古くは「AC」とか「機能不全家族」とか。最近は、「墓守娘」とか「毒母」だっけ?いやもう次から次へと凄いよね。キャッチーだよね。キャッチーさは人の心を鷲掴みにする。

その結果、臨床の場では何が起こるかと言うと、 「私、アダルトチルドレンなんです」とか「家の家族は機能不全家族です」とか。そういう語りから始まるクライエントの言葉。

(それってどういうことですか?と訊く。そこへ至る経緯とか理由とか事情とか)

すると、「××先生の、『××』って本知らないんですか!?この仕事してるくせにモノを知らないんじゃないですか!!(炸裂)」と。

(いや、知ってるけどそういうことじゃなくって、あなたの言葉で語ってほしいんだよ…、的なやりとり。大体上手く行かず、僕の第一印象は悪くなることが多い)

 

ラベル貼るのは結構なんだけど、そこから進んでいけなくなっている人が多いような印象がある。 自分で自分を規定してしまってそこから抜け出せなくなっているような感じ。 言霊とはよく言ったもので、自分で自分にラベルを貼って、そのようにいつのまにか振る舞ってしまっているのだ。

 

機能不全家族」とかだって、なにがどうだったから機能不全だったのか、とか、どのへんは機能不全じゃなかったのか、とか、これからどうすると機能不全じゃなくなるのか、なんて発展的なことがそのラベルからはあまり得られてこない。「機能不全は機能不全です!」みたいな、トートロジー的な感じになってしまう。 他の文脈の可能性が閉じているのだ。

その固定化したラベルを剥がして、もういちどフラットにするのはとても大変だ。ラベル剥がすのはそれなりに痛みを伴うし。貼ってあるラベルが多ければ多いほど苦労する。 じゃあ、ラベルがあることそれ自体って害じゃない?ぐらいには僕は思っている。 勿論、ラベルがあることで、自分のモヤモヤしたところや、足場のない所が定まったりするという利点はある。名前と言うものは、存在を確かなモノにするからだ。

しかし、名前はその属性を帯びるので、負のイメージがあるラベルを貼れば、その人は負の感情に飲み込まれる。「AC」にしろ「機能不全家族」にしろ、そう長くまとっていていいラベルでも何でもないと思う。それを立ち位置にして、そのラベルを剥がしていく作業は必要になるだろうし、最初からそのラベルを使わなくても、自分の言葉で語って行く方が余程良いんじゃないのかな。と思う。

 

ラベルを貼ると「私とは×××です」と規定できる。そこに疑問をさしはさむことが出来ない。「×××なんだから×××なんです!」とシャットアウト、立ち入り禁止にできる。その状況から「もしかして、×××ではない可能性もあるのかも?」という気付きに至るまでは大変長い道のりだ。そして、その可能性を思う時、シャットアウトしたものの大きさに気付くので大概苦しく痛い。でも、そういうプロセスを経ることでラベル剥がしは完了して行くと思われる。

 

ラベルの使いどころは難しい。適正なラベルならば意義もある。 しかし、最近は乱造されている気もするし、その結果自分を自分の言葉で語るという力が落ちつつあるんじゃないのかな、とも思う。

そこは、臨床からは遠く離れた世界の出来事のような気もする(精神保健福祉等の普及啓発とも異なる。社会一般と言うかフィクションの世界なんだろうか)。 誰ともなく発信されたショッキングなラベルが浸透し、特定の個人に絡まり、そして、臨床の場にラベルでがんじがらめ状態でやってくる、という構図の気がする。 それはあまりよろしくない。 ショッキングなラベルは人の心をつかんでも、それは呪いのようで、ちっとも良い方向に続いているように思えないのだ。

 

(※病名の話とはまた別。これはあくまで状態像を表すラベルの話)

薬の印象値

木曜日から病状が増悪していて、結構大変だったなあ。

痛みで気絶するなんて初めての体験だったよ。
喩えた所で陳腐だと思うけど、骨ごと轢き砕かれるような痛みだったな。

<ああ、なんで痛覚があるんだろうおかしいなあ>と思って痛みの中考えていた。
薬の効果が剥げたりすることはたまにある。
代謝の問題なのかもしれない。ヒトの身体の恒常性なんていつも一定ではない。

薬の効果が剥げただけでは、そこまで痛くはならないはずだけど、おそらくは「痛い」と認識してしまったので、一回認識しちゃうとしばらくは感覚が活性化しちゃうんだよね。
痛みがぼんやりするように催眠暗示をを自分でスクリプト作って掛けているが、暗示とは脆いのでこのように現実的な痛みを受けるとすぐ解けてしまう。
そういう意味では鎮痛剤じゃなくて鎮静剤の方が適切なのかもしれなかったり。
その日は鎮痛剤と麻酔をカクテルして打ったけど、鎮静剤でも打った方が良い解決だったかもしれない。



薬は本当に凄いチカラを持っている。
精神科領域で働いていると感じるけれど、クライエントの大体は薬が嫌いだ。
クライエント然り、クライエントの家族然り、社会通念(本とかマスコミとか)然り、盲点として支援者の一部もそうだ。

薬はよくないもので、なるべく飲まない方が良くて、副作用が恐ろしいモノ、という風潮だ。

必要なモノを必要なだけ使えば、それで良いと思うんだよ。
でも、そうじゃない人達は案外多い。

僕は、色々と面倒臭い病に冒されているので、薬が無いとまず日常生活は送れないし延命も出来ない。ADLもQOLもあっという間にがた落ちだ。こうしてブログなんて書いていられないし仕事も行けないし、大方寝たきりで呪いのように痛みに呻いて呻いて発狂するか、自殺するか、というような状況になるのではないかと思う。勿論、病そのものも進行するので、より体は自由が利かなくなるだろう。ロクな結末が待っていない。

でも、こういう状況の僕にも「薬は毒だから使うな」という助言をしてくる輩もいる。

えー、そんな拷問みたいなこと言うの?じゃあ、その代替案って何だろう???

代替案とは、謎のサプリ、謎の水、謎の××(何でもいい)、そして信仰。
見えざる力で僕の病は治るとか。似非科学とか新興宗教。
そういうの、嫌ってほど聞かされてきた。

いや、心理的には効くのかもしれないけどね。
僕はもう「下らんわ」と思ってしまうのでおそらく心理的効果は皆無だろう。

身体の病気だとこういう話はとっても変な話だと思うんだけど、精神科だとそうならず、薬物治療を排斥する方向に動くなあ、と思う。
これは、支援者であってもこういう考え方を根底に持っている人が居ると思う。
カウンセリングだけを執拗に求めるクライエントやセラピストはちょっとそういう傾向がある。
僕はカウンセリングは麻酔無し手術と思っているので、どちらかといえば薬物療法のみで片付くならその方が良いと思っている(実際、薬だけで全快、という感じにはあまりならないとは思うけど)。
大体の人はカウンセリングより薬物療法の方が危ないと思っている。ホントは逆だと思う。

でも、そういうイメージになる位、薬は危険なイメージなんだなあ。
結構みんな、適当に使ってる薬とかあると思うけどね。ロキソニンとか。
そういうのはよくて、向精神薬はダメとかね。どこに線引きがあるんだろうね。

僕の話を例にすれば、ロキソニンボルタレンを使ってる頃は誰も何も言わなかった。でも、点滴を打つようになったら不穏な空気になった。抹消や中枢神経を弄るようなタイプの鎮痛剤を使うようになったら皆もうついてこれなくなったし、オピオイドまで手を伸ばした時点でドン引きだった。だけど、どれもこれも鎮痛剤だし、適正使用だった。免疫の薬は免疫抑制剤って言っただけで皆ドン引きだったけど。

そんな程度の知識理解で、「薬はよくない」だなんてよく言ったものだな、と思う。
受けられるはずの恩恵を受けないなんて文明的じゃないんじゃないかなあ。

クライエントはまだ仕方ないけど、支援者はもう少し勉強してないとダメだろう。
クライエントのそういう不安や偏りを煽ってはいけないんだ。

『マインドフルネスストレス低減法』

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最近話題の(?)、マインドフルネス。 これが噂の15分でWSが締め切りになったという、Jon Kabat-Zinn氏の来日に合わせたフォーラムとな。来るのは11月みたいね。

マインドフルネスフォーラム

僕も行きたかったけどー。

この人の著作を読んだのは5年ほど前だ。師匠が当時、「CBTそんなに自学でやりたいなら、これ読んだら?多分、こっちの方が第二世代CBTより合うんじゃないの?」みたいに寄越してきたのだ。五年経った今、第二世代CBTとか第三世代CBTとかって言い方が適切なのか何とも言えないが。

ここを読んでいる人達はご存知の通り、僕は根本的に体と心の連結がとても悪いので、何かにつけて、このような体と心を密につなぐタイプののメンテナンスを強要されている節がある。しかし、やらねばどんどん体と心の距離が離れてしまうのである。

『マインドフルネス認知療法』を読む前にこっちを読めと言われたのでひとまず読んだのだ。『マインドフルネス認知療法』はもう認知療法の型に作られていて、こっちは概念的な所の話なのかなあ、と。いや、こっちもワークとか書いてあるんだけど。一人用と言うか。クライエントに提供する方法論があるような形には作られていなくて、自学自習用という感じ。

ここに載っているワークは、呼吸法、瞑想法、ボディースキャンと呼ばれる不具合を発している所をキャッチする方法、ヨガワーク等々ある。まあ、ボディーワーク寄りだ。 このボディースキャンと呼ばれる方法は、僕のようなパーツが分断された性質の人には大変相性がよく、やるのが簡単である上にかなり有用である。カメラ視点的な感覚が必要なんだけど、分断していると最初から複数視点があるのでカメラ視点が簡単、という。

当時、僕の身体の病気はまだペインコントロールが悪く、かなり痛みも酷かった(今の方が酷いけど、麻薬使っているし、マインドフルネスを習得したので割と楽になっている)。マインドフルネスの理解として、「そのまま受け入れる/手放す」だと思っている。

メタファーとしては「河の流れに乗って葉っぱが流れて来る。流れの途中でしばらく止まって、また流れに戻りそのまま下流へと流れて行く」ということみたい。

思考とか感情とか、流れてきたら一回手に取って眺めて、そのまま手放すというやり方なんだって。否定するわけでもなく、変えるわけでもなく、そのまま取ってそのまま流すという感じ。

…ちょっと、口で言うの難しいな。という習熟度なのよね。 読んでみるときっとわかるのではないか。これはでも、思想的にはヨガとかに近いのかな。 身体全体で心の動きを捉えて行くという点で。 後は調律の具体的なツールとして呼吸とか瞑想とかって感じ。 最近はマインドフルネスの本いっぱい出てきたからもう少し色々読んでみても良いのかも。