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人形の福祉屋の日々

『非対面心理療法の基礎と実際』

非対面心理療法の基礎と実際―インターネット時代のカウンセリング
非対面心理療法の基礎と実際―インターネット時代のカウンセリング
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培風館
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研究用の資料として調達。

これは、現在の非対面相談の概要が書かれていて、「非対面相談とは何ぞや?」ということをザックリ知るにはとても有用。でも、各論になるとイマイチなので、それぞれ電話相談なら電話相談、ネット相談ならネット相談、プログラムならプログラムという形でそれぞれの本を探していくことになるだろうと思われる。

つまり、「電話相談(ネット相談)とかやってるんだけど、具体的なスキルアップはどうすれば?」みたいなニーズにはあまり対応していない。あくまで、非対面相談にはどういうものがあって、どんな利点と欠点があって今後の展望はどうなのか?的なことを知るとか比較するにはとても良い本だと思う。 僕は電話相談の本は6冊、ネット相談の本は5冊ほど所有しているけど具体的なスキルの話は、それぐらいでようやっと、という感じ。元々非対面相談の専門書は殆どないので多分本に関しては全部網羅しているはず。後は論文に手を伸ばすしかない。

さて、構成は16章

第Ⅰ部基礎編

・1章…非対面心理療法の歴史

・2章…非対面心理療法の方法論

・3章…非対面心理療法の臨床効果

・4章…非対面心理療法の課題

第Ⅱ部実践編

・5章…非対面援助活動としての電話相談

・6章…コーチン

・7章…電子メールによる教育相談

・8章…インターネットとひきこもり

・9章…電子メールによる摂食障害患者への治療支援

・10章…インターネットを利用した強迫性障害の行動療法

・11章…電子メールを用いたフォーカシング技法の試み

・12章…精神分析の視点からみたメールコミュニケーション

・13章…テレビ電話を用いた精神科診療および精神保健福祉相談

・14章…情報技術を活用した生活習慣変容支援

・15章…CD-ROMで学ぶ認知療法

・16章…コンピュータ・アシステッド・カウンセリング

 

僕が仕事で関わりがあるのは5章とか。でも、電話相談をやっている身としてはもう知ってることなのであまり目新しくもなく、ふーん、まあそうだよね。という感じ。電話相談においては、できることできないこと、電話相談特有の課題置いう所がどこでもクローズアップされている。これに関しては僕は電話相談の中の人として結構言いたいことがあるのでここでは割愛。概論でした。

オンラインカウンセリングについては領域と技法との相性がどうかという話のようで、やはりCBTやSFAは相性が良い様子。CBTに至ってはもう対Th.ではなくプログラム相手という所まで来てはいるみたい(簡単なケースに関しては)。場としてはひきこもりとは相性が良いね。まあ、出てこないからね。そういう意味で教育相談の場でも不登校ケースに使えるという話のようだ。

12章では精神分析的なアプローチの話。これは実際難しいね、という話。これ、中読むと精神分析の話じゃなくてナラティヴアプローチの話も入っている。文字媒体だけでは自由連想がほぼ不可能なので、ナラティヴ的に語り、精神分析的に内省、洞察するっていうところでしか精神分析的な手法は難しいよねという結論の様子。

15章のCD-ROMは国産であり、井上和臣先生が作ったということである(僕が今更知っただけなんだろうけど)。これ、使ったことないけどちょっと使ってみたい。CBTは結構進出しているような印象を受けた(この本を読む限りは)。簡単なプログラムで認知の変容が可能であるならば生身のTh.に出会う前に解決するよね、という所である。プログラムでやってみて上手く行かなければ生身のTh.のCBTを受けるというのはコスト的にも良い話なのかもしれない。Cl.側が生身のTh.にこだわるかどうかでもあると思うけど。ホームワークとかこういうプログラムを補助的に使うといいのかもしれないよね。手仕事よりは。

対面だけでも非対面だけでもなく、両方組み合わせて使うと結構効果的な気もする。これは組み合わせ方によるし、対面を経ている非対面と、そうでない場合は関係性の構築具合とか変わりそうだし。このへんは、僕は、個人的にはヴァイジーとしてSVであれこれやってるけど、それもどれぐらい効果が上がってるのかというのは所詮n=1なのでよくわからんな、と思う。

後は、人的資源とかコストの問題で、人工的な(生身のヒトじゃない)資源の活用は良いと思う。倫理的な問題とか心情的な問題はあるんだろうけど。高額なセラピー料金が払えないという人達にも安価に提供できる可能性はあるよ。 このへんの話を突き詰めていくと、先日書いてたbotセラピスト+つぶやき相談、の話に行きつくんだけども。それは、そこまでに膨大なステップがありそうだけどね。

「物」への執着と手放すこと

片付け、というのは公私共にホットな話題。

仕事では、対象者の家に訪問したりして部屋の様子をぐるぐる見ている訳だけど。

大体、ゴミ屋敷か潔癖な綺麗さかどちらかだ。 ゴミ屋敷の方が多い。

ゴミ屋敷は様々な伝説をこの仕事の人間は持っているはず。

僕は、そんなにひどい所は見ていない。せいぜいよくわからない虫の大群ぐらいで。 よくわからない虫ってこわいんだよ。ゴキブリの方が素性が知れてる分マシである。 とはいえ、ゴキブリだらけの家だって流石に長居するのは難しい。

知り合いの同業者にきくとネズミの大群の話なども聞くし、虫はマシな方だ。

ドア開ける時にガンガン棒で叩いてネズミ散らしてから入るとか聞いた。

多くの人は「部屋を片付けられない」とか言うけど、そういう疾患由来性のゴミ屋敷と比較すればどれもこれも何とかなる話なのである。

 

物を捨てればいいじゃん、と。

 

僕は基本的に物に執着しないので必要なくなるとすぐ捨ててしまう。というかあまり持っていない。

物への執着とは何の物に執着するかでその人が何に執着しているのか判る。

過去に執着する人は、学生時代の教科書とかノートとか捨てられなかったり。

関係性に執着する人は、人からもらった物が捨てられない。

不安な人は、いつか使うかも、と使わないモノを保管する。

 

そうやって、荷物が増えると心が窮屈になる。そういうところから自由だと身軽だ。

 

過去の栄光は、現在の自分の在り方にどれくらい影響しているか。昔頑張って今の自分が居るならもう、それは持っていなくても良い。

関係性は、それを捨てた位で損なわれる関係ならそれまでだし。

今使わないものはきっと将来も使わないのだ。必要になればその時また求めればいい。

 

だけど、そんなに上手くは行かないよね。 僕もそういう執着がある物品は幾つか持っているし。

その物を持っていると、自分が嬉しかったりワクワクしたりホッとしたりするかという基準があるし、物が活き活きとするかどうか(自分が持っていることで価値を持つものか)という基準もある。

それらを満たさない物は、物のためにも手放してやる方が良いと思う。

活き活きとしない物はもう死んでいるのと同じなのだ。

そういう問答を繰り返して尚手元に残るものは自分にとって価値ある物であり、物にとってもそれはきっと幸せなことなのではないか。

愛着ある物を手元に増やしていくと、物がいちばんいい状態であるように環境を保つようになり、物を手入れするようになるので、結果として部屋はキレイになって行くのである。

そうやって、片付けをすればいいのではないか、と思う。

片付け指南本とかに書いてあるのってこういう話じゃないんだろうかね。

テクニックよりも動機付けの所が重要なんだと思う。

ハレとケとケガレ、そして塩

先日、電話相談の職場で「夜勤は妙に疲れるんですよ…」みたいなことを言っていたら「夜勤は重い相談が来るし、負のエネルギーを吸い過ぎているんじゃないか?塩を持つといいと先輩から聞いたので持っている」と同僚に言われた。

塩。 僕は最初、塩でも食べたら元気が出るとかそういう話なのかと思っていたんだけど。この文脈での塩は、「清めの塩」的な発想だということが判る。 そりゃ、自殺関連の相談が多いだけにそういう発想にもなるのかもしれないが。でも、それを言った同僚は「死」=「清めの対象」という意味ではなく、「相談者に死を呼び込むようなモノ」=「清めの対象」としているらしく、普段の対面相談での仕事でもお守りのように塩を持っているのだとか。「ケース展開で、クライエントによくないことが起きないように、というジンクス的なモノだ」と言っていた。 まあ、勿論塩云々でケースが展開は左右されない。 僕らはプロな訳で。お守りみたいなものである。そういう話なのだ。 じゃあ、この「不吉なモノには塩」的な感覚ってどこから来るのかな。

 

この話を聞いていて、ふと柳田國男の「ハレ」と「ケ」の話を思い出した。ので民俗学的観点?で考えることにする。

「ハレ」とは「晴れ」だ。非日常である。冠婚葬祭とか。お祭りとか。季節行事とか。節目節目の行事。後は旅行とか。晴れの舞台とか、晴れ着とかの「晴れ」だ。

「ケ」とは「褻」だ。日常である。日々のルーティンワークとでも言えばいいのかな。仕事とか学校とか家事とか。僕の場合は病気の治療とかもケになるね。

「ケ」(日常)が遅れなくなった状態を「ケガレ(褻枯れ)」と呼ぶ。「ハレ」がプラスの非日常ならば、「ケガレ」はマイナスの非日常だ。この「ケガレ」状態は「ハレ」を以ってしてチャージしたりリセットかけたりすることが出来るそうな。そうすると、枯れた状態が回復して「ケ」が送れるようになると。

なんかこれ、エネルギー論になるのでうつ病の回復みたいな話よね(あくまでイメージ)。 この「ケガレ」は「穢れ」とも取ることが出来てこっちの方が「褻枯れ」よりも馴染んでいるよね。不浄なモノという意味だ。不浄なモノを祓うために塩で清める。というね。 葬式から帰ったら玄関の前で塩を掛ける。それって「死」が不浄だからだ。 でも、冠婚葬祭と言うぐらいだし、葬式とは「ハレ」だったのかもしれない。 ヒトの死を「ハレ」と取るのか「ケガレ」と取るのかはかなり価値観に左右される所ではあるよね。

 

話は戻って、自殺の相談が多いから「塩」を持つという話である。 自殺は死の中でもとりわけタブーみたいな取扱いになっている。家族も関係者も。その話を聴くことすらもタブーみたいな雰囲気がある。僕らはそういう相談を実行前の人も、実行されて失敗した人も、実行されてしまい遺された家族の人の話を、率先して受けるので死の話がメインだ。生きるとはなにか、死ぬとはなにか、そういう話を聴く。自分の死生観も当たり前に引き摺り出されるし向かい合わねばならない。 そういう場に身を置いていると、死そのものが不浄とはどうしても思えない。僕は元々医療畑だし、病死にしたって、その死は不浄にならない。となると、何を塩で祓うんだろう。そう考えると、「褻枯れ」状態こそ真に祓うべきものだよな、と思う。相談者を自殺に追い詰めるようなエネルギーの枯渇状態とか。枯渇するから日常が立ち行かなくなって自殺まで思いつめることになる。そういうモノを概念的に祓うということでの「塩」ならば、「死という穢れを祓う」よりは納得出来る。

まあ、僕らはプロであるし、塩に頼って祓うのではなく、専門性を以ってして「褻枯れ」状態をなんとかしていく、ということなんだけどもね。ただ、そういう技術が無い人達にとっての、「よくわからないけど良くないモノから身を守って欲しい、元気になって欲しい」という祈りや願いみたいなものは昔も今もあんまり変わらないのかもしれないな、と思った。 そんな訳で、お守り程度に住むなら塩でも用意して夜勤をこなそうかと思う。 深夜の仕事場はマジで恐いからである。僕はその手のモノは視える体質だしそういうの地味にこわいからである。じゃあなんで今まで塩を持ち歩いてなかったんだよ、という所であるが、全くそんなこと思いもつかなかったからである。しかも病院じゃないから油断していたというのもある。病院に勤めていた頃はマジでこわかったので色々持っていた。塩とか、お守りとか。

でも実際は、生きているヒトの方がよほど性質が悪いし、こわいんだけどね。

scrap and build

scrap and buildするには、それを施す相手への深い愛が必要なんだな。

痛みを伴うだけにな。

 

…と、今日SV行ってきて、思った。 愛が無かったら、生きて帰って来れなかった。 だって、今まで生きるために設定した軸を粉々にされたわけだし。 でも生きているので、きっともう別の軸が育ち始めているのだろう。

botセラピストは人間の夢を見るか

今日のTwitterのやりとりでの派生。

 

人工無脳と呼ばれる存在がある。

人工知能と対極的な存在であり、最初からヒトにに似せて作られている。特に思考したりする訳でもない。 Twitterでは、よく「bot」と呼ばれるものだ。 特定のフレーズに特定の返事を返すというものである。 「おはよう」と呟けば「おはよう」と返って来るし、「ただいま」と呟けば「おかえり」と返ってくる。 ネタ化しているあからさまなbotもあるし、生身のヒトと区別のつきにくいbotもある。 友達だと思って会話してたらbotだったとかいう話を目にしたり(それホントかな?)。 botだと思ってたら中の人が居たとか。 そういう感じで、文字媒体では中の人が居るかどうか区別つきにくい。

さて、最近の僕は非対面相談のあれこれを勉強している。師の田村先生も片手間にやっている。 先生は、ネット相談をメインにあれこれやっている。メール相談とか、MLとか、色々だ。

最近は「つぶやき相談」というTwitterのTLの流れをイメージしたシステムを構築している(らしい)。 ちょっとだけ僕も手伝ったりしたけど、それはお遊びみたいなものなので、あんまり役に立ったかどうかは謎だ。 僕の知らない所で勝手にカタチにしているんだろう。どうせ。 そういうのは僕としてはちょっと癪なので何か新しいモノ無いのかなあ、とか考えていた。

 

つぶやき相談の問題点として、相談員の確保と質の問題があるし、相談員の拘束時間の問題もある。即応するって言うのはつまり24時間だ。 それってちょっと大変だよね。 そういう所に質の良いbotを混ぜておいたとしたらどうなんだろう。 簡単な挨拶とか。 「かなしい」「落ち込んでいる」「死にたい」と言葉が紡がれたら、それに反応する言葉が即応でレスがつくような形があれば良いんじゃないんだろうか、と思う。

 

…こういうこと書くと、プログラムに相手させるの?みたいな話になるんだけど。 勿論生身の相談員の方が良いに決まっている。プログラムは思考しないし会話になっているようでなっていない。ひとりごとと近いのだ。 だけど、生身の相談員とつながらないぐらいなら、botの返事で自殺を引き留められるならそれでもいいんじゃないの?と思う。 相談員を増やすのは物凄く難しい。僕もほとんどの時間昼も夜もあちこちで相談員やってるけど、全然足らないもん。プログラムで事足りるのならそれでもいいと思っている。 botを作った人は、真面目にそれがゲートキーパーになれば良いと思って作るんだから。 別にふざけちゃいない。それならばbotにだってゴーストが宿るかもしれない。

実際botを造るに当たり、汎用性の高いbotを作るのは結構難しい。 個人に特化したbotならそんなに難しくはないのだと思う。理屈的には。 例えば、僕がへこんだ時用のbotとかって作れるんだと思うんだよ。 僕にとってのモデルとなるセラピストってのは存在しているし、対応もある程度ある。 僕のネガなキーワードを抽出して、それに対応した応答を結びつけて行く。 それで、僕のフォロワーにそのbotを仕込んでおくと、僕が突発的にガタッと崩れた時に、ほろりと良い感じの言葉が良いタイミングで来たりする、という仕組み。 こういう所から試しに試作して汎用性の高いモノを作ってみると良いのかもね。

CBTなどは、もう生身のヒトではなくプログラムでゲームみたいにやるタイプもあるという(生身のセラピストのCBTが必要なくなる訳ではない。プログラムで済む人はプログラムで済むだけの話) ただ、これは人格を付与することは出来ないね。 iPhoneでsiriとか流行ったよね。あれもbotと言える。でも皆面白がって人格を設定して愛でてたよね。 だから、botセラピストっていう存在はアリなんじゃないのか、と思う。

『終末期と言葉』

終末期と言葉
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高橋 規子 小森 康永
金剛出版
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 待ちに待っていた本が昨晩届いて、深夜だというのに一気に読んだ。 前情報では、終末期の心理屋と友人である(主治医ではない)精神科医の往復書簡という話であって、死にゆく人の語り、当事者としてのナラティヴの実践が綴られている、という情報だった。 この二人は家族療法学会の人でもあるし、自分の師である田村先生とは縁のある人達だろう。

構成は三部構成。

第一部…われわれはどこから来たのか

第二部…われわれは何者か

第三部…われわれはどこへ行くのか

第一部は、それぞれの原家族の話。家族療法家は自分の原家族のことをよく知って居なければならない、という話は教わったけど、それが端的に書かれている。

第二部は、それぞれのセラピストとしての顔。ナラティブアプローチの話。このへん僕は専門外なので歴史的な流れとか深い所まではちょっと理解しきれない。文献が豊富に載っていて、それを全部読んだら大体わかるのかもしれないと思った。 そして、この本の企画が持ち上がった時のメールのやりとり。これは2011年の家族療法学会が終わった直後みたい。

第三部は、本の企画が立ち上がってから11月に高橋氏が亡くなるまでの二人のメールのやりとり。本の話と、高橋氏の治療選択の話、病状の話。亡くなる三日前までのメールが載っている。そして、高橋氏が病床で書いた最後の遺稿「Dの研究」。

 この「Dの研究」はなるほど!と思ってとても役立つと思った。これ、自分の受けているSVでも田村先生が似たようなことやったことがあって、それともリンクした。視点をずらすというか、1カメで観てたのを3カメで観よう!みたいな。対象は同じなんだけど。

 ◆

 内容は細かく書かないけど、僕は最初、もっと「死にたくない」とか「死ぬのがこわい」とか「治療がきつい」とか「痛いのは嫌だ」とか、そういう感情的な表出が入ってるんだろうかとか予想してたんだけど、そういうのは無かった。淡々と、淡々と治療のことや病状のことや、それと仕事の話がずっと続いて行った。最期のメールまで。 そういう感情が無い筈はないんだけれど(人間はそんなに強くできていないと思っている)、そのように表出しなくても小森氏から深い承認が得られているからそれで良いということなのかもしれない。もしくは表出しないことが高橋氏の在り様なのかもしれないし。

  でも内容は物凄くシビアだ。あの病状ではいつもギリギリだったと思う。メールが続く保証なんて6月の時点から無かっただろう。いつ死んでもおかしくないのに、でも次があるかのようなメールばかりだった。小森氏の返事と言うのも実に淡々としているんだけれどそれでも深い承認に満ちていて、ああいうメールがもらえるのはきっとエネルギーになったはずだ。

  僕はナラティヴアプローチも家族療法も概論的な所までしか学習が至っていないので、この本が、その理論的にどうなのか、というところまで思考が及ばないので、平凡な感想になってしまっていけないんだけど、僕はこの本は、死にゆく人のひとつの希望なんだと思っている。こういう形で自らの死をデザインし、語り、形に遺すというのはとても希望があることだ。

 少なくとも、病気を抱えてそう長くは生きられない自分にとっては世界がひっくり返るみたいな感覚だった。こういう形で死んで行けるならば喪失には絶望だけでない喪失しないと得られない希望があると思えたし、そのために得られるものは得ておこうというかなり前向きな気持ちになる(※喪失が嫌だ、と否定的であればあるほど、どうせ喪失するのだから何も得たくないという気持ちになるのである)

それって、この本にもあるディグニティセラピーとしてはものすごい成果なのだと思う。

◆(ここからは自分の話)

 これ読んで僕は、まっさきに「ああ、この高橋氏という人がとてもうらやましい」と思って、思って思って仕方なかったのである。ちゃんと死ぬまで生きている、と思ったしそれを支えてくれる人達が沢山居たし。

 僕は、こういう終わり方はとても良いと思っていて、自分もそうなりたいなあと思う。 自分の喪失だって十分、何か形作るための素材になるはずなのだと思っている。 だから、二番煎じでも良いからこういうの作りたいなあと思っている。 自分の死は自分でデザインして良いのならば、臨床的にも研究的にも利用出来たら良いと思う。臨床やってる者として。そういう在り方が良いと思っている。

 …こういう終わりの話、まだもう10年位先の話だとは思いたいけど最近、病状が悪いので考えておいても損はないと思う。 そういうの、田村先生に「一緒にやってよ!」と頼みたいんだけど、頼むにしては僕のレベルが低すぎるのでとても恥ずかしくまだ口に出来ない。こういう所で呟くのが関の山だ。

再起動

Twitterフォロワー500人突破記念で、ブログを再開することにした。

再開と言っても、昔のブログは持ってきてない。だから実質は心機一転。

 

Facebookはあまり自由でなく、Twitterは流れて行くので、新しい所をひとつ。

特に定めず、色々書いてみようかね。